嘉永六年(一八五三)十二月、藩は郡奉行・町奉行・九浦町奉行へ庶民の詳細な服装・生活規制を渡し、全領への徹底を命じた(同前No.四八〇)。その中から、町方の住民に対する主要な規定を挙げてみよう。
④遊山・芝居見物・湯治の際に華美な手回り道具を持参しないこと。
⑤お山参詣の節に華美な服装をしないこと。また幟(のぼり)や御幣(ごへい)も小さめのものにすること。
⑥下駄(げた)に至るまで商売で贅沢な物を売らないこと。以後摘発しだい物品を没収する。
このような禁令は当然それを守らない人々がいるから出されるのであり、華美に流れ、遊山を求め、貨幣経済に染まっていく幕末期の民衆像が浮き彫りにされている。
加えて、中には公然と礼儀や社会秩序を乱す者も出現した。たとえば道で武士と出会った際に庶民は頭のかぶり物をとり、五~六間(けん)先で立ち止まって脇によけるのが礼儀とされていた。ところが昨今はその用心がまったくないばかりか、街道で馬を疾走させたり、牛馬の絆綱(きずなつな)を長くして引き連れる者や馬子(まご)などがおり、通行の妨げとなっているという(同前No.四八八)。これは危険なばかりでなく、蝦夷地警備に向かう各藩の藩士に対しても無礼に当たることから、藩では再三の注意を促している。
また、盆踊りなどの祭礼時には庶民の不満が爆発的に発散されるが、当時非常に無軌道な若者がいたのも事実であった。安政六年(一八五九)六月の目付触では、近年盆踊りの時に手踊りを企画する家中召使の者がおり、彼らは一般の見物人に向かって押し寄せ、雑言(ぞうごん)を投げかけたり、また女性でも男の姿で踊りに加わる者もいるとあり(同前No.四八三)、相当深刻な逸脱ぶりがうかがえる。特に問題なのは家中召使=小者・仲間(ちゅうげん)・掃除方といった、いわば体制側の人間が無頼(ぶらい)化している現象であった。彼らの行為は拡大していき、やがて武士階層にまで拡大していった。慶応三年(一八六七)六月には、本町大津屋九左衛門の店に大勢の踊り子が乱入して乱暴を働くという事件が起こったが、その中には家中の次、三男らも混じっていたという(同前No.五〇〇)。
家中召使や次、三男らをそこまで駆り立てた原因は、おそらく自らの待遇に対する不満や鬱憤(うっぷん)が中心と思われるが、市中の治安は悪化し、武士を武士とも思わぬ犯行も起こった。文久元年(一八六一)十一月の夜、虎三郎(姓は不明)という武士が茂森町(しげもりまち)の隣り覚仙町(かくせんちょう)に差しかかったところ、何やら大勢の者が集まっていたため、提灯(ちょうちん)を向けたところ、回りをぐるりと囲まれて険悪な状態となってしまった。虎三郎は刀を抜いて威嚇(いかく)したが、討ち漏らして逃げられてしまった。その後の調べで鍛冶町の鍛冶業源吉という者が刀傷を負っており、虎三郎は見つけしだい源吉を討ち捨てにすると藩に届け出ている。この事件が起こった九ヵ月前の二月には、夜に提灯をつけずに往来を通らないこと、手拭いなどで顔を覆うことがないようにとの目付触が出されており(資料近世2No.四八七)、相当治安は悪化していた。今まで述べた現象は上方や江戸とは異なるが、津軽地方における世直し状況といえるのではあるまいか。