小社の神仏分離

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弘前藩で領内の堂社数を把握したのは一七世紀末のことであり、その数は七四六ヵ所であった。しかし、在村では専業神主のいない小さな堂社も多く、七四六の社堂の内、四一〇は神官のいない堂社であった。藩はそれらを神職を通して把握してはいたが、幕末になると無人の小の取り締まりに手が回らないようになり、本章第一節で述べたように、往々にして「夢想(むそう)」や「大平神(たいへいしん)」といった新興宗教や、藩士の次、三男層による祭りでの群舞や乱暴者の集会に使される恐れがあった。そこで、藩は明治三年八月に在村小社の神仏分離に関して詳細な指令を発し、これらの整理に着手した。その概要は次のとおりである。
①一村の産土神(うぶすながみ)(守護神)で仏体仏号の神社は仏体を上納し、従来祀っていた神号をつけた神社にすること。なお、別社があり、それが神体神号の場合はその別社を産土神とすること。さらに、格別由緒のない別社は廃社とするので、由緒があれば申し出ること。

産土神や廃社にある仏像は、すべて最勝院に持参すること。

③仏体を取り除いた産土神は、従前祀っていた神体神号を納めるまで神璽(しんじ)へ移すこと。

④仏体の上納に関しては、その村でよくよく相談し、支障のないようにすること。もし紛争に及んだ際は必ず届け出ること。

⑤今までの棟札は仏体とともに取り除き、神職宅で保管すること。

神明宮八幡宮熊野宮天満宮のほかは何神社と社号を改名すること。その際、権現号はもちろん、仏語に紛らわしいものは廃社とする。

⑦宮号・権現号を書き記した旗・額の類など、仏語の入り交じった物や仏具は速やかに取り除くこと。

 このように産土神や小社は地域に密着したものだったため、藩はことさらに詳細な規定を打ち出したわけであるが、これを受けて神職の持宮はどのように処理されていったのだろうか。表31は「神仏混淆神社調帳」(弘図八)に記載がある四〇六社についてまとめたものであるが、この数は幕末の神社数からみて約三分の一に当たり、おおよその傾向をうかがい知ることができよう。
表31.神仏混淆神社調帳の分析
No.種  別内    容産土神その他
1神職からの願出神  体仏体上納5597
2仏体そのまま48
3神体そのまま28119
4神  社社号改正70216
5社号そのまま1638
6堂社廃止150
7堂社合社021
8社寺掛指示神職願い出を承 認そのまま存続3524
9条件付き存続460
10不承認新神体勧進70
11堂社廃社0107
12堂社合社0107
   紛    争    中13

 まず神職の願い出を分析すると、産土神八七社(表中No.1~3の合計)のうち神体となっている仏像を上納したいというものが五五社(六三・二パーセント)、神体となっている仏像をそのまま神体として祀りたいというものが四社(四・六パーセント)、神体なのでそのまま祀りたいとするものが二八社(三二・二パーセント)となっている。また、神社の名前については、改めたいとするものが七〇社(八〇・五パーセント)、そのままにしたいとするものが一六社(一八・四パーセント)、神社を廃社にしたいとするものが一社(一パーセント)、ほかに氏子との紛争中で結論の出せないものが一社(一パーセント)ある。
 これをみると、神社の存続を望むものがほとんどであることはいうまでもないが、神体となっている仏像を神体に変え、多くの神社が名前も改称しようとしていた。江戸時代までの神社の神体には仏像や石といったものが多く、それはその産土神がもともと草分け百姓や名主の屋敷神から発展したものなど、元来は個人の氏神であったからである。開墾中に土の中から掘り出されたものや、漁村であれば浜に打ち上げられたものなど、山野河海と民衆の間を媒介するあまたの神々が存在したのであった。そして、その神は仏像の姿をしているが、それがどのような仏であるかは村人たちにとって本質的な問題ではなかったのである。よって、表中No.8・9の産土神合計八一社(全体の九三パーセント)については願い出を認め、神社の存続を指示している事実にみられるように、藩では産土神をできるだけ存続させる方針をとっている。
 しかし、産土神以外の神社については、正反対ともいうべき結果を示している。仏体上納は九七社(表中その他No.1~3二二四社の四三・三パーセント)、仏体そのままとするのは八社(三・六パーセント)、もとから神体なのでそのままとするのは一一九社(五三・一パーセント)であり、社号の改正を望むものが二一六社(表中その他No.4~7三二五社の六六・五パーセント)、そのままのものが三八社(一一・七パーセント)、神社の統廃合を望むものが七一社(二一・八パーセント)となっている。つまり、神官にしてみれば自分の持つ神体はもとより神体であり、たとえ仏体であってもそれを上納し、持宮の号を変えることで存続を希望したとみることができる。当時の神官は平均で一人一〇社程度の宮を持っており、自分の拠点とする産土神は存続させて、ある程度の廃社はやむをえないという方針を立てていた神主が多かったようである。これに対して藩の社寺掛の指示では、存続を許された神社はわずかに二四社(七・八パーセント)に過ぎず、ほかは廃社や合社としている(表中No.11・12)。
 以上から、弘前藩では小社の神仏分離については、地域社会に根ざした産土神をできるだけ残し、その他の小社はほとんどを廃社・合社させる方針をとったのであり、神社は一村に一社程度に整理されていったのである。