修験道(しゅげんどう)の整理

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神仏分離令は神体・仏体を厳しく峻別(しゅんべつ)した宗教政策であったが、従来仏教神道に両属していた者に修験の者もいた。彼らは手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、(おい)を背負い、法螺貝(ほらがい)を吹き、総髪の者が多く、とても僧侶にはみえなかったが、祈祷に際しては真言密教を唱え、堂社を持つ神仏両属の存在であった。神仏分離は当然、彼ら修験にも及んだ。
 明治三年(一八七〇)閏十月、社寺署修験道に関して四ヵ条の触れを発した。その内容は以下のとおりである。
修験者の持宮は村の鎮守であっても神社は最寄りの神官に譲ること。仏体神号の神社は仏体を上納すること。もし修験者が持宮を失うことで生活難に陥る場合は、修験者に戻ったうえで、神主となり神職となる願いを出すこと。

修験者の持宮で仏号の堂社は、神体・仏体に関わらず、別社・末社は神体上納のうえ、廃社または仏体の堂社は鎮守社に合堂し、いずれも取り壊すこと。

修験者の持宮の神体は社寺署に納めること。ただし、由緒があるものは申し出ること。

④以上のことが済んだら、寺社領・廃社地を調査し、神職寺院の持分を仕分けする。

 この当時、弘前藩では九三社が修験者の持宮であったが、内七〇社は修験者では維持できないので、仏体を除去して最寄りの神職堂社を譲り、生活が困難な場合は神職となるように指令された。また、残り二三社は観音堂・大日堂など仏教色が強い堂社であり、神体を上納して神道色を抜いたうえで修験者による祭祀が認められたが、その修験者が復飾神勤した場合は最寄りの修験者に譲られることとなった。このように藩は修験道より仏教色を徹底して取り除いたため、多くの修験者は復飾神勤願いを出して、生活の方途を神官への転身に求めざるをえなかった。そのため、場合によっては一村に産土神氏子と旧修験者堂社を信奉する氏子が混在する事例もみられたが、藩では社家長の管理のもとで、神職が異なるものについてはそのままにすることとした。このように、これまで述べた弘前藩の神仏分離政策は、在地の都合を第一に考慮し、不公平が生じないよう配慮したもので、結果的に神仏混淆がなくなれば良いとするものであった。