日常着

470 ~ 472 / 767ページ
町人は原則として木綿の衣服を着していた。したがって、前に述べたように、農民は麻のみから後に麻または木綿になったので、両者を比較すれば、町人の方が規制が少し緩やかであったといえる。
 江戸時代を通じて、町人の衣服が明確に規定されたのは寛政期であった。「国日記」寛政二年(一七九〇)二月十一日条によると、御用達(ごようたし)および町名主(まちなぬし)などの有力町人は、下着は小袖着とする((つむぎ)・太織(ふとおり)などは許可)。ただし色付きで無垢仕立(むくじたて)(衣服の表着(おもてぎ)から下着まで表裏全部、無地の同じ色で仕立てたもの)の小袖を着するのは認めない。上着は木綿製のみとする。仲買および日雇の者に羽織の着は許可しない、とみえている。小袖とは狭義には冬季の綿入れで製のものを指すというが(前掲『日本服飾史』)、津軽弘前藩では・太織を許可しているのだから、上等の製の小袖を禁じたのであろう。
 『御用格』〈寛政本〉第一三 町「衣類之部」寛政二年二月十一日条に、右に示した「国日記」同年月日条の部分を補う記事が五ヵ条みえ、それを整理すると次のようになる。
①夏の衣服について――近年町人の妻子は絽(ろ)(織り目の透いた薄い絹織物。夏着の単・地・羽織などにいる)の帷子(かたびら)(裏をつけない麻などで仕立てた衣服。暑衣)を着する者があると聞いているので、今後は麻帷子を着すること(ここでは有力町人と一般町人の区別は不明である)。

②夏羽織について――重立った町人羽織を、その他の者たちは麻布の羽織を着のこと。

③町医の場合――特別扱いで従来どおりとし、女たちの衣服は重立った町人の妻子の扱いと同様にする。

④召使および手代(てだい)の者の場合――冬は上張(うわはり)(上にはおり着る着物)や浴衣(ゆかた)を着し、羽織は禁止する。夏は単物(ひとえもの)(裏をつけない一重(ひとえ)の和服)を着し、帷子や羽織は禁止する。ただし、麻の帷子だけは特別に認める。

重立った町人の場合――年頭・五節句などの時にはの着を許可する。ただし、藩当局へ出入りしている諸町人は、これまでどおりにを着してよろしい。

 これらの規定によって、町人の着した衣服が判明するが、右の規定と同様なものが、その後の「国日記」享和三年(一八〇三)八月七日条(資料近世2No.二三五)・文化四年(一八〇七)十二月十五日条・同八年九月一日条・文政十年(一八二七)十二月二十八日条にもみえている。これら寛政・享和・文政期の衣服規制は、天明四年(一七八四)から文政八年にかけて実施された津軽弘前藩の寛政改革の一環として出された倹約令の一部であり、しだいに経済的実力を備えてきた町人の奢侈(しゃし)を抑えるためのものであった。

図124.町人の衣服

 次に、その後幕末までに町人の衣服は、藩からどのように規制されていたかをみると左のようになる。
 天保十二年(一八四一)に、有力な町人農民であっても、藩士が着する踏込(ふんごみ)(本章第一節三(一)参照)と間違われるようなものを身につけることが禁止されている。したがって、衣類の種類によっては、有力な町民と農民が同等に扱われ、彼らと藩士とが区別されていたことが知られる(「国日記」天保十二年十二月二十九日条)。
 翌十三年には、有力な町人すべてが、夏はこれまでの羽織をやめて布(麻布)羽織を、冬は生地では並木綿(なみもめん)を着するよう命じられている(同前天保十三年九月十二日条。嘉永六年十二月十七日条にも同じものがみえる)。
 このように布羽織の着は、すでに述べた前掲『御用格』寛政二年(一七九〇)二月十一日条の②(第二条)にみえる羽織の段階より、質素倹約を厳しく求められたことになろう。
 最後に女性の服装については、記録にほとんどみえず不明である。おそらく全国的に共通する小袖中心の衣服であり、生地は男子のそれに準じていたものであろう。