「国日記」によると、領内における織物の需給、特に絹織物については、藩御用の必需品であったこともあり、古くから先進地の江戸や福島から絹織物職人を招き、蚕種も移入して養蚕を盛んにするとともに織りの普及に努めていた。しかし絹織物の生産が組織的、本格的に行われ、手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三)に京都から招聘(しょうへい)した野本道玄(本は元、玄は元とも表記されている)の力によるところが大きかった。
野本道玄は「江戸日記」(弘図津)元禄六年十二月十八日条によると、家老津軽監物(つがるけんもつ)の口ききによって知行一五〇石積りの擬作(あてがい)(国元不作のため扶持者や合力の形で支給)、身分は医者並として招聘されている。「国日記」元禄七年一月六日条では御茶道野本道玄と記されているほか、茶道役としての誓詞を差し出しており(元禄七年六月六日条)、これらの記述から茶道指南のために召し抱えられたことは明らかである。もっとも、茶道役の野本道玄が絹織物師の斡旋や自ら養蚕の技術指導に当たり、絹織物の生産に資するようになったのは藩の要請によるものとはいえ、その経緯についてはよくわからない。
元禄十二年十月三日に、京都の絹布織師欲賀庄三郎(ほしがしょうざぶろう)(欲は星とも表記されている)・冨江次郎右衛門(とみえ(か)じろうえもん)の両人が江戸から到着している。両人の召し抱えは、野本道玄のかねてからの上申によるもので、織座を取り立て、領内における養蚕と絹織の指導および生産の向上を図るための招請であった。
なお江戸出立に際して、江戸屋敷御用人から国許御用人への書状を持参していたが、それには織物師両人が領内各地の桑の栽培と養蚕の状況や染・織に利用できる植物(うえもの)等を巡回調査するに当たっては、諸事支障なく自由に査察させ、さらには懇切な対応を求める旨が記されていた。
織物師両人は着任後領内の巡察を始めている。上磯(かみいそ)(現青森市油川から東津軽郡三厩(みんまや)村に至る陸奥湾沿いの地域)と下磯(しもいそ)(現青森市野内以東の陸奥湾沿いの地域)を巡見の際、からむし(苧麻(ちょま)、茎の皮から採取した繊維(せんい)。帷子(かたびら)等織物の原料とする)の植え付けを知り、それについて領内各地のからむしの栽培と所有状況の調査を申し立てている。養蚕や絹織以外の繊維や染料等の調査にも及んでいるのは、前述の江戸藩邸御用人よりの覚書に基づくもので、巡察は在々・浦々の村落九九ヵ所に達した。
査察した上磯根岸(ねぎし)村(現東津軽郡平舘(たいらだて)村根岸)には養蚕にすぐれている者が多く、良質の繭が生産されていた。しかし生産者の言い分によると、例年生活困窮が続いているうえ、操業資金に乏しいため、買い取り商人から前借りの状況にあった。なお返済は生産した生糸(きいと)(蚕の繭からとった繊維を数条をあわせて糸にしたもの)の現物による差し引き返済の形をとっていた。藩では増産を呼びかけるとともに、外部への流出を抑え、また〝からまゆ(蛹(さなぎ)が蛾になって出た繭。真綿や紬糸などに使う)〟を買い取る交渉をしている。
なお道玄が京都へ持参した生糸について、和糸問屋の間では日本最上、高級品にも使えるとの評価を得ていた(「国日記」元禄十四年二月二十五日条ほか)。