藩校創設の機運は好学の八代藩主信明(のぶはる)の治世から高まってきた。一八世紀半ば以降、行き詰まりの状態となった藩政を打開するために有能な人材が必要とされ、組織的な武士教育が求められた。それに応えるべく諸藩で藩校が設置されていったが、信明はこうした時代の趨勢(すうせい)に鋭敏に対応していこうとした。
信明は、幼時には戸沢半左衛門維顕とその子元吉国禎について学び、十五歳の折には荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号は灊水(しんすい))とその門人本田章三(号は鉄洲、大村藩儒)から学問、詩文を学んだ。
戸沢維顕は祖州と号し、また嚮館と称し、寛延三年(一七五〇)六月藩に儒臣として召し抱えられた。五代藩主信寿の落胤(らくいん)との説がある。母は小村氏で、懐妊のまま幕府大番戸沢新右衛門に嫁したが、間もなく夫と死別し、実家に戻り半左衛門を生んだという。母は、半左衛門が十三歳のとき、間部侯家臣竹原庄兵衛と再婚したが、半左衛門は十九歳の時に故あって竹原家を離れ、京橋弓町に私塾を開いた。後に昌平坂学問所にも出て、周易を論弁した。一時二本松丹羽侯に招かれ国政参与の機会もあったが、妬まれて江戸に帰り、上野池ノ端に私塾を構えた。その後、湯島に移住。五〇〇石にての仙台公への招聘話もあったが、母の命に従い、二〇人口料にて藩に出仕したという(「戸沢氏由緒」『伝類』)。明和四年(一七六七)、信明の守役となったが、同八年病身のため御免となった。その子国禎は近習小姓より御書役となり、信明からの信任も厚く内々に国政の相談にあずかることがあった。
宇佐美灊水は徂徠最晩年の弟子で、松江藩に仕えた儒者である。徂徠の直弟子世代がほとんど世を去ってしまった江戸において、徂徠の経学に関する著述の校刊に精力を注ぎ、師説の祖述に徹し、当時評判の高かった敦厚(とんこう)な儒者であった。明和五年(一七六八)大坂で刊行された「三都学士評林」と題する評判記の「江戸の巻 経学家の部」では最高位の「極上上吉」に位置し、「独り見識を御立てなされず、先師徂徠の経学の通りにて諸生を御引廻しの段、あつはれ徠門(徂徠一門)の座頭でござります」との評判を得ている。彼は徂徠の人間観や教育観を忠実に継承し、心の内的な自己統制を前提とする朱子学的思考を退け、人間の心は外からの方向付けによってこそ統制されるものと考えた。徂徠的思考においては、人間の心を知らず知らずの内に秩序づける、外部環境としての制度や仕組みの整備を図るべきことに意が注がれた。この視点から、よき「風俗」、よき「人材」を生み出すための組織的な機関として学校の必要性が説かれてくる。灊水はその著述「事務談」(『日本経済叢書』巻十一)で風俗を正し、英才を教育するために「学館」を設けるべきことを説いているが、こういった考え方が信明の学問所構想に影響を及ぼしたことは十分に考えられる。信明は灊水に篤く師事し、「孝経」講釈の折は師よりも下に着座して礼譲を尽くし、遇するに師弟の礼をもってした。信明の名は灊水が「左伝」を典拠に選び進めた(「無超記」、「孝公御行実」)。
藩では四代藩主信政の時代から「城中講釈」が行われていたが、散発的なものにすぎなかった。信明はこの城中講釈の定例化を図るべく、寛政三年(一七九一)三月二十二日に触れを出している(「国日記」寛政三年三月二十二日条)。評定所で月のうち五の日には兵書の、二と七の日には儒書の講釈の機会を設けるので、家中の大小の諸士は自由に聴講するように、また武芸については三月・五月・八月・十一月の六の日に見分をするので、腕に覚えのある者は遠慮なく罷り出るように、という趣旨のものであった(同前)。次いで九の日には医書講釈を行う旨を発し、表医は全員出席、町医・在医は出席自由とした。講師としては兵書の講釈には貴田孫大夫、岡本兵馬、横島勝右衛門が、儒書講釈には山崎図書、竹内彦太郎、唐牛大六が、医書講釈には表医手塚玄策、伊藤春益、北岡太本がそれぞれ命じられている。
信明のこうした学問・武芸の奨励策は幕府の動向と緊密に連動する面があった。すなわち松平定信は老中に就任して間もない、天明七年(一七八七)七月に「芸術見分」の令を出しているが、これは学問、芸術を吟味したうえでの人材登用の道をねらったものであった。信明のそれはこれに倣ったものであった。信明は定信にしばしば教えを請い、定信も信明を外様ではあるが老中に推挙したく思うほどに高く評価していたという(「老譚」『記類』上)。
定信は聖堂の刷新に乗り出し、寛政二年(一七九〇)五月に朱子学を「正学」とする旨を林家(りんけ)に通達した。俗にいう寛政異学の禁であるが、これはしばしば誤解されているように、国家的規模での学問統制、思想弾圧を元来意図したものではなかった。定信は本人が思うほどに朱子学者ではなかった。学問の実用性を重視し、学問を政治の場に生かすべしとする定信の考え方は、実は徂徠の思想から学ぶところのものが多かった。定信は熊本藩主細川重賢に私淑し、学校を人材養成のための組織的な施設として位置づける考え方を熊本藩校時習館(じしゅうかん)の例から学び、白河藩主としても領内の立教館の運営に積極的に当たった。重賢は学校を「人ヲ鋳ルノ器」(「時習館学規條条大意」)として、国家有用の人材を養成する装置と捉えたが、これは徂徠を敬慕し徂徠の思想から決定的な影響を受けていた、熊本藩士水足博泉の著述『太平策』(徂徠の同名の著作とは別もの)の学校論から示唆を受けたものであった。
この重賢は信明をも嫡子同然に可愛がり、信明も重賢を実父のように慕って教導を仰いだという(「無超記」『記類』上)。定信と重賢との面会には信明が陪席することもあり、三者はきわめて懇意な関係にあった。このような関係からして、信明の学校構想の思想的背景として、先の灊水の教えや、重賢・定信を通して学んだ徂徠学的な発想に基づいた学校観が多分に考えられる。信明は、徂徠の『政談』からの影響を受けて人材登用と藩士の帰農策を提言した毛内宜応の「存寄書」に理解を示した。「孝公御行実」(弘前市立図書館蔵)によれば、信明自身、灊水の門人、本田章三に就学していた当時『政談』を筆写していたという。
以上述べてきたように、徂徠学との関係性からして、信明の学問観には実学的な志向が強い。入国の初め、信明は年来学問をして古に通じている山崎図書(蘭洲)を召して、民の困窮救済について諮問した。民の凍餒(とうたい)の患を救うことは執政の職務であり、文学に携わる我らの預かるところではない旨の山崎の立場上からの返答に対して、信明は学問は救民に心を用いてこそ「実学」であるとして、凶荒で民を救った古例を書き上げさせたという(「老譚」)。また天明五年(一七八五)三月二十四日、参勤で弘前を出立する当日、藩士に対して、「武士道堅固ニ相守」る旨を告諭し、文武を奨励して士風の刷新と綱紀の粛正を促し、学問の真の意味は「人倫五倫之道」を知って躬行(きゅうこう)実践することにあり、「詩文章」のみに長じた口先の学問は「不益之学問」であると通達している(「学校取立ニ付申渡候書付」国史津、『記類』上)。
信明は学校創設の実現をみないままに寛政三年(一七九一)六月二十二日、江戸で急に病を得て亡くなった。享年三十歳。その遺言の一つには、「学校を設くべし、然し国の分数に叶へて礼譲を本とし、徳行をなさしむべし」との旨があり(「老譚」『記類』上)、その実現は末期養子の和三郎(九代藩主寧親、当時黒石領六代領主)に託されたのである。