稽古館の儒学者たち

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稽古館を彩った歴代の儒学者には、津軽永孚、山崎蘭洲に加えて、伴才助、唐牛大六、葛西善太、葛西健司黒滝彦助黒滝藤太長崎慶助伊藤熊四郎神文左衛門、釜萢(かまやち)太一、石岡舎蔵赤松粂之助川村善之進猪股久吉、兼松成言(かねまつせいげん)、工藤主善、櫛引(くしびき)儀三郎、伊東広之進らが名を連(つら)ねた。
 伴才助(松軒と号した)は山崎蘭洲に師事し、江戸に上って服部南郭(なんかく)の門人安達文仲に学び、その後昌平黌(こう)に入り、帰国して稽古館の総司を兼ねた。「帝範」、「臣範」を校正し、また寛政律の成案に中心的役割を果たした。当時古学派が隆盛であった稽古館の学風を朱子学に改革せんことを家老大道寺隼人に進言した。
 唐牛大六も山崎蘭洲の門人で、寛政三年(一七九一)に江戸に上り昌平坂学問所に学び、帰藩後、御懸として寛政六年の稽古館の創設に参画した。「春秋左氏伝」の考究に精力を尽くした。
 葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から朱子学に変更するのに大いに奮闘した。
 黒崎彦助、その弟黒滝藤太長崎慶助葛西健司釜萢太一伊藤熊四郎川村善之進等もいずれも江戸に上り、昌平坂学問所、あるいは佐藤一斎に学び、帰藩後はそれぞれ学校の要職について教学に力を尽くした。藤太は聖堂書生寮の舎長を務めていた折、乱心者を取り押さえ、文武精励をもって林大学頭より賞せられた。藤太は刑律に詳しく、文化律の改正作業に尽力した。長崎慶助は順承と世子の承昭の侍講を務めた。慶助の弟勘助は江戸留学中優れたるをもって支藩黒石侯に召し抱えられ、家老に昇進した。
 幕末期から明治にかけては兼松成言(一八一〇~一八七七、号は石居(せっきょ))が活躍した。成言は江戸藩邸で成長し、幼いときから鋭敏で細井円蔵平井東堂とともに江戸藩邸の三奇童と称せられた、という。寧親はその才を愛し、賞を与えて学業を奨励し、成言は昌平黌に入学し、古賀侗(どうあん)、佐藤一斎に学んだ。また典籍を屋代弘賢(やしろひろかた)に質(ただ)すなど和漢の学に通じた。天保十三年(一八四二)藩主順承の侍講を、さらに弘化三年(一八四六)には世継ぎの武之助(承祜)の侍読を命じられた。嘉永三年(一八五〇)には蘭学兼修を命じられ、蘭学者杉田成卿(せいけい)と交わり、本所に蘭学塾を開いた。安政三年(一八五六)継嗣問題で国元弘前での蟄居を命じられた。万延元年(一八六〇)許され、慶応元年(一八六五)六月に経学士として迎えられ、同二年小司となり、明治三年七月には督学(惣司)になり、稽古館廃校までの多難な時期を最高責任者として重職を全うした。また一方では城下茶畑町に私塾「麗沢(れいたく)堂」を開き、藩校から閉め出された子弟を広く教育した。著述に「引声啓蒙」「喪服私議」「津軽藩祖略記」「前譜磯菜間筆記」「柄討南記略」「討北略記」等がある。

図174.兼松成言

 工藤主善(しゅぜん)(一八一八~一八八九 他山と号した)は十五歳で稽古館に入学し、二十六歳の時に稽古館助教になったが、弘化二年助教を辞し、嘉永元年江戸に上り、朝川善に師事して経史を学び、次いで大坂に出て篠崎小竹に学んだ。嘉永四年帰郷し、久渡寺住職海叟の招きによって徒弟を教育した。その後、北津軽郡の中里に退き、寺子屋を開業したり、青森に移住して寺町に私塾を開いたりしたが、慶応三年(一八六七)再び稽古館の助教に就任した。同時に弘前では五十石町に私塾「思斎堂」を開いた。「思斎堂」は塾生およそ三〇〇人を集め、上町を代表する兼松の「麗沢堂」と対峙する、下町における代表的な塾となった。新聞「日本」を発刊し、明治の言論界で指導的役割を果たした陸羯南(くがかつなん)はこの塾に学んだ。工藤主善は史学に長じ、『津軽藩史』を著している。

図175.津軽藩史
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 伊東広之進(一八一五~一八七七 字は一轂、梅軒と号した)は伊藤熊四郎(白斎と号した)の甥に当たる。文政十一年(一八二八)、十四歳で稽古館に入学し、二十四歳で稽古館典句に挙げられたが、二十九歳の天保十四年(一八四三)に藩許を得て江戸に上り、昌谷(さかや)五郎の門に入り、また佐藤一斎、朝川善、東条一堂について学んだ。その後弘化元年(一八四四)大坂に赴き、篠崎小竹の門を叩き、ここで海防僧と呼ばれた月性(げっしょう)と交わる。同二年、四国・九州・中国の各方面を歴遊し、有名無名の学者を精力的に訪ね、教えを請い、議論を交わし、見聞を広めた。また歴遊中は接近する外夷の情報などを詳しく日記に書き留めており、それは情報収集の旅でもあった。伊予では伊予聖人と異名のある近藤篤山(とくざん)を訪ね、赤穂義士を論じ、徂徠を評し、豊後日田(ひた)では広瀬淡窓の私塾咸宜園(かんぎえん)を訪れ、月旦評(げったんひょう)による独自の教育方法に注目し、講義を聴講した。弘化四年(一八四七)帰藩し、嘉永二年(一八四九)には御馬廻七番組を仰せつけられ、北辺警備の海防の役についた。同五年、東北周遊の途にあった吉田松陰と宮部鼎蔵(ていぞう)の二人が広之進宅を訪れ、北辺の地津軽の海防や学制について尋ねている。明治三年七月、広之進は学校教授を命じられた。