野本道玄

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信政が上方から招いた技能者の内のひとりに野本道玄(一六三六~一七一〇)がいる。伝えによれば、道玄は木下長嘯子の第一四子として生まれたという。母の家に育てられ、洛北鷹峯(たかがみね)に住んで漢学や仏学に通じ、長じて赤穂浅野家に仕えていた一樹三世野本道玄の家を継ぎ、利休以前の茶風である「古儀茶道」を修し、一樹四世と称した。山鹿素行の勧めで信政の茶道指南として一五〇石で仕えた。多くの茶書を著しており、「濃茶全書」「茶道一源」「茶経一源」「数寄道大意」「隠田語類」「茶術行記」「茶経宝鑑」「茶経脱漏」「茶考」「数寄良将」等が知られている。道玄は水の良否をよく選別し、油川(現青森市)の水は京都宇治川の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『奥富士物語』)。茶庭にも才を発揮し、青森油川の浄満寺、弘前の梅林寺本行寺貞昌寺報恩寺の庭を造っており、三の丸庭園も道玄の作といわれている。
 道玄は茶人、数寄人としてのみではなく、養蚕機織製紙等の実業にも指導的役割を果たし、弘前の産業振興に貢献した。元禄十二年(一六九九)、道玄の建議により織物師欲賀庄(荘)三郎、富郷次郎右衛門らの諸工が上方から招かれ、翌十三年紺屋町に織座(おりざ)が開設された。上方風の絹布綾羅(りょうら)を織り、養蚕家がを持ち込むことを条件に養種、養蚕資金、米銭の貸し付けが行われた。彼は機織製糸の改良を督励し、上方から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。さらに弘前城南の富田村・土手町裏に紙漉町を取り立てて、楮を植えさせ、種々の紙を漉かせるなど産業振興に力を尽くした。また『蚕飼養法記(こがいようほうき)』を著し、京都で一〇〇〇部印刷させ、領内の希望者にも頒布した。