江戸時代前期の建築

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寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。三間堂に廻縁(まわりえん)を付けて妻入りの入母屋屋根を載せ、向拝には向唐破風(むかいからはふ)を載せている。素木造(しらきづくり)の東照宮は全国的にみても珍しいものであり、境内仏堂として一般的であった三間堂をいていることなどからも、地方色の強さが表れているとみてよいであろう。
 岩木山神社楼門(ろうもん)が同じく寛永五年の完成であり、同年には長勝寺の三門も起工され、翌年の寛永六年(一六二九)に落成した。
 岩木山神社楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊かに四周を圧している感がある。形式は禅宗様を基調にして細部に和様を混ぜており、その外部を全面に丹(に)塗りにしている。

図235.岩木山神社楼門

 長勝寺の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九)に完成しており、「造手法が酷似することから、同人もしくは同系統の技術者の手になるものとの想像に難くない」と『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』では述べている。また当初の棟札によると、この時の技術者は、奉行 伊州(いしゅう)住――、同 勢州(せしゅう)住――、大工奉行 羽州(うしゅう)住――、同 江州(こうしゅう)住――、大工泉州(せんしゅう)住――、小工 勢州住――、同 城州(じょうしゅう)住――、鍛冶 城州住――と記されており、伊賀・伊勢・出羽(でわ)・近江(おうみ)・和泉(いずみ)・山城などの出身者で奉行から大工、鍛冶まで占められていた。現在の姿はその後、文化六年(一八〇九)に大修理を受けており、花頭窓(かとうまど)や仁王像などが付け加わっている。さらにこれとあわせて長勝寺の御影堂(みえいどう)が寛永六年(一六二九)に造られたと伝えられているが、文化二年(一八〇五)に大規模な修復がなされてからの姿を我々はみているのである。

図236.長勝寺三門

 津軽家霊屋菩提寺である長勝寺の境内に、歴代藩主やその奥方の霊屋が、為信の御影堂から南にほぼ一直線に並んで建っている。ともに同様の造りであり、それぞれに門がえられ玉垣(たまがき)が一棟ずつ廻り、その中に二間に二間の堂が建ち、外面は素木造のようで、津軽家家紋が側面に描かれている。入母屋造妻入こけら葺(ぶき)の屋根を載せている。
 年代順にみると、為信室の霊屋である環月台(かんげつだい)が寛永五年(一六二八)に建立されたが、なんらかの事情で朽ち果てて、寛文十二年(一六七二)に再建されたのが現在のものである。次いで二代藩主信枚の霊屋、碧巖台(へきがんだい)が寛永八年(一六三一)に建てられ、その室の霊屋である明鏡台(めいきょうだい)が寛永十五年(一六三八)の建立である。明鏡台徳川家の家紋が描かれているのは、満天姫徳川家から輿(こし)入れした人物だったからである。五棟並ぶ中でこの二棟がその姿も美しく細部の化粧もゆきとどいた抜群の建築であって、その細部においても優れた形を示している。
 岩木山神社拝殿は、先にも述べたように、百沢寺大堂(本堂)として慶長八年(一六〇二)に為信が建てたものを二代信枚から三代信義までかかって、寛永十七年(一六四〇)に入仏供養式(にゅうぶつくようしき)を挙げた。この時の棟札には「――精舎一宇(しょうしゃいちう)岩木山大堂――寛永十七庚辰(かのえたつ)年」と記されており、さらに大工棟梁は「津軽之住――」とあり、小工は「和泉国」とされている。外部は丹塗りで内部は弁柄(べんがら)塗りであり、外陣と内陣とに分けられて来迎壁(らいごうかべ)が取り付き、須弥壇(しゅみだん)が設けられ、現在は長勝寺に祀られている厨子(ずし)の華御堂(はなみどう)(蒼龍窟(そうりゅうくつ))に本尊像などが置かれていた。建立当時は、中世的な雰囲気をもつ密教本堂であったが、厨子などが取り除かれて、現在はかなり開放的な空間を示しており、神社拝殿として使されている。
 長勝寺の華御堂は、寛永十七年(一六四〇)百沢寺大堂と一緒に完成した。建築型の一間厨子入母屋造の木(こがわら)葺である。極彩色で各文様を描いているにしては、落ち着いた配色を示しており、みるものを感動させる。

図237.長勝寺華御堂(蒼龍窟)

 津軽家霊屋の四棟目として、三代信義を祀っている白雲台(はくうんだい)が明暦二年(一六五六)に建てられた。他の霊屋とあまり相違はないが、ほかの四棟は龍であるのに、ここにだけ天井に天人が描かれている。