江戸時代後期の建築

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津軽家霊屋のうち、最後は六代信著(のぶあき)を祀る凌雲台(りょううんだい)で、その建立は宝暦三年(一七五三)である。
 霊屋もここに来てやっと地方色を出すようになり、頭貫の木鼻と台輪(だいわ)との組み合わせなどに、特色がうかがわれるようになってきた。
 円明寺(えんみょうじ)の本堂は、明応八年(一四九九)に油川(あぶらかわ)に創建されたものが弘前へ移されたといわれ、越前門徒が活躍する様を彷彿(ほうふつ)とさせるが、火災に遭って、明和元年(一七六四)に仮本堂として再建されたと伝える。浄土真宗寺院としては県内最古のものであり、仏間との境の欄間や須弥壇が天保二年(一八三一)に寄進されたものであることも、欄間背面の墨書によって知られる。
 橋雲寺(きょううんじ)は愛宕様とも呼ばれて一般に親しまれており、愛宕山勝寿院(しょうじゅいん)とも称したという。為信や信枚、それに信政などの藩主がかかわるような寺伝もあるが、詳細は不明である。しかし現奥ノ院は造形式や細部様式などからすると、一八世紀後半と推定してよさそうである。
 普門院(ふもんいん)の本堂は、その創建の事情などは明らかではないが、重(茂)森に観音堂があったのを「長勝寺構」を造るときにここに移されたという。一般に「山観(やまかん)」と呼ばれたこの観音堂は、後方の三間堂がそれであり、礼堂(らいどう)としての前方二間部分は後の増築かもしれない。造もはっきりと異なっており、一八世紀後半のものとみることができよう。
 長勝寺の御影堂は、寛永六年(一六二九)に建てられたが、文化二年(一八〇五)に大規模な修理がなされた結果が現在の形である。当初は本堂の南西側に建っていたが、それを本堂中央の真後ろに移し、さらに正面を南から東へ変えるという大改造がなされ、全面的な彩色工事も施された。
 革秀寺津軽為信霊屋は、一間に一間の小規模なものであり、正面に軒唐破風を付けた入母屋造こけら葺の屋根で妻入である。扉や彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の大部分が、文化年間(一八〇四~一八)の大修理によるものであることも判明している。
 猿賀(さるか)神社の本殿は特異な姿をしている。正面は一般的な三間社流造であるが、側面は身舎の梁間を三間にとって、これに前流れの屋根を載せている。近世には拝殿も兼ねていたとみられるが、そのような場合、一般的には前室(ぜんしつ)付き流造(ながれづくり)とするところである。文政九年(一八二六)の建立を示す棟札ものこっており、津軽家の祈願所であった神社が、これほどの地方色をあらわにする造技術を示していることは珍しい。