勧誘状
但、金禄公債証書又は正貨を以て加入何れも差支無之候也
明治十年第十月十二日
大道寺繁禎
第一、二、四、五大区並三大区各小区区務所宛
国立銀行結社取調所を仮に本町一番地に開き標札を掲け置候に付、加入望の方々は来る十七日より二十五日迄実印持参同所へ罷出候様致度左候へば、御面談の上諸事協議仕候間乍御手数、右之趣御管下御示諭被成下度此段及御依頼候也
但、金禄公債証書又は正貨を以て加入何れも差支無之候也
明治十年第十月十二日
大道寺繁禎
第一、二、四、五大区並三大区各小区区務所宛
(前掲『第五十九銀行六十五年史』上)
株主募集に対して、応募者は七〇〇名、申し込み禄券額は四三万円に達したことで、発起人は同年十一月に資本金四三万円の国立銀行設立を出願しようとしたが、政府関係より資本金の許可見込額は一五万円程度と内示を受けたため、資本金を二〇万円にして出願した。また、発起人として改めて大道寺繁禎、蒲田昌清、松野幹、芹川高正、横島彦八の五名を選出した。なお、官吏は発起人になる資格がないため、大道寺繁禎は県御用掛を辞職することになった(青森銀行行史編纂室『青森銀行史』青森銀行、一九六八年)。
このような経緯で国立銀行創立願は明治十一年一月二十五日に出願された。
国立銀行創立願
私共、申合、明治九年八月中御頒布相成候国立銀行条例を遵奉し、青森県管下第三大区一小区陸奥国津軽郡弘前本町一番地に於て、資本金額概計二十万円を以て国立銀行創立仕度、尤既に株主も大略決定仕居候儀に付、何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也
明治十一年一月〔二十五日〕
大蔵卿 大隈重信殿
私共、申合、明治九年八月中御頒布相成候国立銀行条例を遵奉し、青森県管下第三大区一小区陸奥国津軽郡弘前本町一番地に於て、資本金額概計二十万円を以て国立銀行創立仕度、尤既に株主も大略決定仕居候儀に付、何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也
明治十一年一月〔二十五日〕
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡徒町川端町十五番 横島彦八 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡徳田町九番 蒲田昌清 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番 松野幹 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡若党町百一番 芹川高正 印
青森県士族
第三大区二小区陸奥国津軽郡富田村三番 大道寺繁禎 印
本所元町一番地 梅沢嘉右衛門方止宿
第三大区一小区陸奥国津軽郡徒町川端町十五番 横島彦八 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡徳田町九番 蒲田昌清 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番 松野幹 印
青森県士族
第三大区一小区陸奥国津軽郡若党町百一番 芹川高正 印
青森県士族
第三大区二小区陸奥国津軽郡富田村三番 大道寺繁禎 印
本所元町一番地 梅沢嘉右衛門方止宿
大蔵卿 大隈重信殿
(資料近・現代1No.二一二)
写真28 第五十九国立銀行創立願
そして、この創立願は同年三月十二日に許可され、銀行名は「第五十九国立銀行」と称するよう指令された。
写真29 第五十九国立銀行創立許可
新設銀行が第五十九国立銀行として創立を許可されると、同年三月十四日、渋沢栄一は発起人に「青森国立銀行創立に付開業前心得書」(同前No.二一四)を送り、株式額面の決め方から創立関係書類の作成方法や開業後の銀行業務などの指導を与えた。
その後、十二月七日に創立証書(同前No.二一五)や定款(同No.二一六)などの必要書類が大蔵省に提出され、十二月十日には早くも開業認可を受け、開業免状が大蔵卿の大隈重信より交付された。
開業免状
青森県管下第三区弘前本町三十四番地に於て創立する第五十九国立銀行より差出したる創立証書に拠り、此銀行は大日本政府より発行する所の公債証書を抵当として銀行紙幣を発行し、之を通用し之を引き換ふる儀に付、明治九年八月一日、大日本政府に於て制定施行したる国立銀行条例の手続を履行したること分明なるに付、今此開業免状を交付し、自今右条例を遵奉し国立銀行の業を営むことを許可するもの也
右の証拠として余は茲に記名調印し併せて当省の印章を鈐(けん)するもの也
明治十一年十二月十日
大蔵省印 大蔵卿 大隈重信 印
青森県管下第三区弘前本町三十四番地に於て創立する第五十九国立銀行より差出したる創立証書に拠り、此銀行は大日本政府より発行する所の公債証書を抵当として銀行紙幣を発行し、之を通用し之を引き換ふる儀に付、明治九年八月一日、大日本政府に於て制定施行したる国立銀行条例の手続を履行したること分明なるに付、今此開業免状を交付し、自今右条例を遵奉し国立銀行の業を営むことを許可するもの也
右の証拠として余は茲に記名調印し併せて当省の印章を鈐(けん)するもの也
明治十一年十二月十日
大蔵省印 大蔵卿 大隈重信 印
(同前No.二一七)
こうして第五十九国立銀行は明治十二年一月二十日をもって開業した。本店所在地は、渋沢栄一や商業を営む平民の株主らが海陸交通の便のよい青森にすべきだと主張したが、株主の大半を占める弘前士族らの意見で弘前に決定され、青森には支店(同年七月一日)が、そして、青森と同じく海運の盛んな鰺ヶ沢には出張所(同年四月十一日)が開設された。
設立時の族籍別株主は表15のとおりであり、士族が株主総数の九四・五%を占め、さらに、持株数も九七・四%に達していた。このことから第五十九国立銀行は、士族授産のための士族銀行として設立されたのは明らかである。しかし、青森や鰺ヶ沢に支店や出張所が開設されたのは、地元商人の要望を全く無視することができなかったことのあらわれだろう。
表15 族籍別株主内訳(創立時) |
人 員 | 株 数 | |
士 族 | 659名( 94.5%) | 3,896株( 97.4%) |
平 民 | 38 ( 5.5 ) | 104 ( 2.6 ) |
総 計 | 697 (100.0 ) | 4,000 (100.0 ) |
前掲『青森銀行史』 |