写真66 第1回県会記念写真(明治12年)
第一回通常県会は、明治十二年(一八七九)三月二十五日閉会となったが、同年三月三十一日発売の東奥義塾開文社の『開文雑誌』第一号に今宗蔵の筆と言われる論説「県会傍聴余論」が掲載されている。
我青森県会議ハ既ニ本月五日ヲ以テ開会ノ式ヲ行ハレ、県会ヨリ下附セラルル地方政治ノ緊要事務ナル五号ノ議案ハ、皆一次、二次、三次ノ審議ヲ経、其諸事ヲ終リ、今二十五日ヲ以テ閉式ノ式ヲ行フニ至ル。是予輩人民参政ノ権利ヲ実際ニ占領スルノ嚆矢(こうし)ニシテ、東洋諸国未曾有ノ美政ナリ。他日国家ノ福祉安寧ノ基スル所コレヲ措テ亦何ゾ他ニ求ルアランヤ(中略)
夫レ今回ノ議員諸君ハ(中略)予輩ノ親シク目撃スル所ヲ以テスレバ、議場ニ在テ審議討論スルノ際、絶テ一異論、一動議ヲ発スルナク騒然トシテタダ議決ヲ表スルニ方(あたり)テ、多数ノ員ニ備ハルモノ議員中殆ンド二分ノ一ニ居ルガ如シ、(中略)縦令(たとい)其事ニ慣熟セザルモ、真理ノ在ル所、利害ノ繋ル所ニ至テハ十分ニ意見ヲ開陳シ、論議ヲ悉スニ何ノ難キコトコレアランヤ、(中略)堂々四十余万人ノ代議士タルモノ、焉(なん)ゾ斯ノ如キ卑怯未練ノ心ニ出デザルハ明瞭ナリト雖モ、之ヲ内チ心ニ熟知スルモ、外言論ニ発セザレバ若シ人アリ彼等ハ公衆ノ委托ヲ受クル所以ノ主義ヲ知ラザル者ト評語ヲ下スモ敢テ辞避スベカラザルガ如シ
夫レ今回ノ議員諸君ハ(中略)予輩ノ親シク目撃スル所ヲ以テスレバ、議場ニ在テ審議討論スルノ際、絶テ一異論、一動議ヲ発スルナク騒然トシテタダ議決ヲ表スルニ方(あたり)テ、多数ノ員ニ備ハルモノ議員中殆ンド二分ノ一ニ居ルガ如シ、(中略)縦令(たとい)其事ニ慣熟セザルモ、真理ノ在ル所、利害ノ繋ル所ニ至テハ十分ニ意見ヲ開陳シ、論議ヲ悉スニ何ノ難キコトコレアランヤ、(中略)堂々四十余万人ノ代議士タルモノ、焉(なん)ゾ斯ノ如キ卑怯未練ノ心ニ出デザルハ明瞭ナリト雖モ、之ヲ内チ心ニ熟知スルモ、外言論ニ発セザレバ若シ人アリ彼等ハ公衆ノ委托ヲ受クル所以ノ主義ヲ知ラザル者ト評語ヲ下スモ敢テ辞避スベカラザルガ如シ
今宗蔵は、意欲を欠く議員を批判し、次なる国会選挙の基盤づくりのためにもっと活発な議論を望んでいた。
明治十三年から十四年にかけて、自由民権運動が全国的に最高潮となった。弘前では、東奥義塾を母体とした自由党系の共同会が創立され、毎週土曜日には演説会を開いて時事問題を論議した。また、血気の青少年によって東洋回天社が結成され、旧城内に集って気焔を上げていた。奈良誠之助や石郷岡文吉が指導した。他地域では黒石に共進社が発足、のち益友会と改めたが、大地主の加藤宇兵衛や弘前藩士族竹内清明、黒石藩士族で東奥義塾派・弁護士の榊喜洋芽が指導者で自由党系、これに対し、浪岡の一心社は、帝政党系で浪岡八幡宮の出自で官僚の阿部政太郎によって十三年十一月結成された。自由党系は北津軽郡にも合同会や北辰社、三八地方には暢伸社(土曜会)が結成された。
しかし、これらは、県政・県会に対して組織として行動するということはなく、国会開設や国会議員が目標であった。したがって、初期の県会議員も多くは保守系の者たちが選ばれ、民権運動に活躍した者たちが県会に顔を出すのは十四年も後半のことだった。それにしても、十三年三月の本多庸一らの国会開設の建白書は、青森県下の有志三千人の代表と唱え、二十二年五月の大同派会合で竹内清明は南津軽郡益友会千二百余人の団結を誇示した。地方民衆の政治への参加意欲がうかがわれる数字である。