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(五二)日珖

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 日珖佛心院と號した。【伊達常言の男】伊達(油屋)常言の子で、天文元年堺に出生した。稍々長じて堺頂源寺(現西湊町長源寺)の第二世日沾に師事し、十七歳三井寺の勸學院宥尊に就いて、倶舍、唯識を學び、奈良に趨いて戒律を受け、比叡山に登り、尊契に就いて台教を習ひ、其蘊奧を盡くした。斯くして一山の請により、大衆の爲めに三大部を講じ、大衆は重寶の紫袈裟を贈つて、其勞を謝した。【紫衣の嚆矢】日蓮宗に於て紫衣を着るは、之を以て嚆矢とする。日珖は此紫衣を、京都の妙顯寺に傳へた。天文二十年南禪寺に禪要を探り、又美濃に遊んだ。弘治元年二十四歳京都頂妙寺の第三世となり、堂舍の修繕に努め、三年四月權僧正に任ぜられた。(佛心歷代師承傳)【頂源寺再興】永祿元年頂源寺の本堂、刹堂及び番神堂を再興し(日珖筆行功部分記)又入洛して神道を卜部兼右に學び、其奧祕を傳へられ、(佛心歷代師承傳)四年九月父常言の爲めに、悟道の要諦を書して之を贈つた。(常言日珖書狀、佛心歷代師承傳)十二月三好實休日珖を久米田に請して戒を受け(日珖筆己行記)五年安居の地東西三町、南北五町を割いて之を寄附し、道場を興立せんとした。(佛心歷代師承傳)是歳正月より三月に至るまで高屋に居城、三月五日實休久米田に於て戰死するや、同夜日珖は城中の諸男女を率ゐて堺に還つた。(己行記)十一年四月寺地を夷げ礎石を据ゑ、五月父常言巨財を抛つて寺院の建築に着手し、(佛心歷代師承傳)土佐より虹梁を牽き、大殿、影堂、主殿、樓門、廻廊、四足門、鐘樓、南北の學舍、經藏及び菊仙坊、學忍坊、常得坊常琢坊等、凡そ叢林として具備すべき殿堂を建築した。(己行記)【妙國寺創建】是に於て頂源寺の開山妙國院日祝の院號を取つて妙國寺と稱し、山號を廣普山と號し、日珖は其開山となつた。十月講席を開き、元龜三年六月に至つて終つた。日珖は又山光院日詮常光院日諦と謀つて、台教を輪講した。(佛心歷代師承傳)【泉南三光會】世に之を泉南の三光會と稱し、尊秀、智鏡、日重等の英俊も亦之を聽講した。これ檀林の先蹤とも見るべきものである。(本化別頭佛祖統記)元龜四年四月頂妙寺囘祿の災に罹つたが、日珖は時に止觀不思議境を講じた。天正元年周ねく宗祖の書を閲して、當家の論義を著し、二年三月入洛して、頂妙寺を修營して輪奐の美に復した。五月相國寺に於て、織田信長に謁し、七月には本法寺の歌會に列席した。三年九月近江坂本に於て、一七日間晝夜二次の説法をなし、妙顯寺日教、明智光秀等來聽し光秀は古筆色紙を贈り、日珖亦後柏原院宸筆の詞花集を贈つた。【阿波の宗論】十月阿波より宗論の義を註進して來た。是に於て同國勝瑞に至り、三好長春に謁し、專念宗の僧と宗論を鬪はし、數囘論義を重ね、終に之を折伏して感狀を與へられ、又高野の學匠圓正と、三問三答して、悉く其邪義を摧いた。(佛心歷代師承傳)三好別記に、此時の宗論には、日蓮宗が負けたやうであつたが罰もなく、眞言宗が勝つたやうであるけれども、利生もなく、阿波一國愈々日蓮宗が繁昌したと記して居る。同五年には倶舍界根品並びに安國論を講じた。(佛心歷代師承傳)七年織田信長の命により、【安土問答】五月近江の安土に至り、貞安と宗義を問答し、問答四、五囘に及んで、遂に日珖の敗との宣言を與へられ、安土の正覺院に謹愼を命ぜらるゝこと十餘日、六月十二日に至つて其禁を解かれた。是に於て法難を避けて、坂本の妙壽院に入り、翌日京都の頂妙寺に歸り、堺に遁れて隱居した。(己行記、佛心歷代師承傳)【家康來遊】同十年德川家康穴山梅雪と共に堺に遊歷し、家康は松井友閑宅に館し、梅雪は光明院に宿した。六月二日信長本能寺に於て弑せられ、其報至るや、家康は急遽歸國せんとした。時に日珖は盛膳を陳べて、茶を侑めた。家康は手に茶碗を受けて、其名を問ふた。日珖は灰被と答へた。其音早勝と聞こえたので、家康は吉兆として茶碗を請ひ受け、油屋常言の謀に從ひ、賈客の體をなし、大和路より伊勢の白子を經て、海路遠江に歸つた。後其茶碗の返禮として、光堂天目に寶の一字を書して、之を贈つた。梅雪は京都路に出で、終に土冦の手に殪れた。(治要錄)是歳一夏、倶舍頌疏全部を講じ、冬復之を續講した。(佛心歷代師承傳)同十三年七月豐臣秀吉の命により、赦されて安土の誓文を破られ、大阪に至つて秀吉に謁し、八月上洛して、諸寺に謝し、前田玄以に面して、其好意を謝し、微案抄を獻じた。(己行記、佛心歷代師承傳)同十四年三月下旬、豐後國主大友宗麟妙國寺に宿した。(治要錄)同十八年五月、番神堂拜殿建立の志を以て頂妙寺に説教し、又神道同一鹹味抄を述作し、文祿二年九月重ねて妙國寺に説法した。時に歳六十二であつた。(佛心歷代師承傳)文祿年中、中山法華經寺の日典其靈寶を散逸するや、日珖は之を訴へて、遂に日典の職を退かしめ、【中山寺中興】中山寺の輪番制度を確立し、衆の懇請と幕府の命とにより、同三年の秋、同寺に瑞世し、輪番の始祖となつた。頂妙寺の日曉は二祖に、本法寺日通は其三祖となり、是より妙國、頂妙、本法の三寺は、輪次に中山に首班となることゝなつた。(治要錄、佛心歷代師承傳)慶長三年八月二十七日春秋六十七歳を以て、中山に示寂した。遺弟日通は遺骨を收め、之を京都本法寺の妙雲堂に納めた。【弟子及び受法者】弟子一百餘人、就中日曉、日通日統等を駿足とする。受法七十餘人の中、野口太郞右衞門、加賀七郞兵衞三好實休、溝淵三郞右衞門篠原伊賀守、同越前守、同孫一郞、十河千松等は其主なるものであつた。(佛心歷代師承傳)【著書】述作の書に、前記神道同一鹹味抄文句無師安土問答記錄宗門眞祕要略當家論義抄微案抄等がある。(日宗著述目錄)其中文句無師は、日詮日諦日珖との合著である。

第十八圖版 日珖書狀