表-6 イシカリ十三場所・知行主・請負人・運上金変遷表 |
比定場所 | ナイホ | 下サツポロ | シノロ | 上サツポロ | ハツサム | 下ツイシカリ | |
1 | 『西蝦夷地場所地名産物方程控』 天明六年 〔石狩拾弐ヶ所〕 | ||||||
モマフシ | サツポロ | チイカルシ | ナイホウ | ハツシャブ | トマヽエ | ||
小林甫左衛門 | 目谷才右衛門 | 高橋善六 | 南条安右衛門 | 酒井作之右衛門 | 松崎太次右衛門 | ||
阿部屋伝吉 | 天満屋三四郎 | 阿部屋伝吉 | 阿部屋伝吉 | 浜屋久七 | 薬屋太兵衛 | ||
五両 | 三五両 | 三五両 | 三五両 | 二五両 | 二二両 | ||
2 | 『蝦夷草紙別録』 天明六年 | ||||||
モマフシ | サツポロ | チイカルシ | ナイホウ | ハツシャブ | トマヽイ | ||
小林甫左衛門 | 目安(谷)才右衛門 | 高橋善六 | 南条安右衛門 | 酒井作之右衛門 | 松崎太次右衛門 | ||
阿部屋伝吉 | 天満屋才右衛門 | 阿部屋伝吉 | 阿部屋伝吉 | 浜屋久七 | 薬屋太兵衛 | ||
二〇両 | 二〇両 | 一五両 | 三〇両 | 二〇両 | 二〇両 | ||
3 | 『松前随商録』 天明末~寛政初 〔石狩十六箇所〕 | ||||||
下シノロ | 下サツポロ | 上シノロ | 上サツポロ | ホツサブ | シツカリ | ||
小林保左衛門 | 目谷才右衛門 | 高橋平蔵 | 南条安右衛門 | 酒井弾次郎 | 松崎多門 | ||
七両二分 | 古一七両 | 古二二両 | 古一六両 | 古二七両 | 一七両二分 | ||
4 | 『松前志』 天明末~寛政初 〔石カリ十三ヶ所〕 | ||||||
下シノロ | 上サツポロ | 上シノロ | 下ア(サ)ツポロ | ハツサフ | シツカリ | ||
小林安右衛門 | 目谷才右衛門 | 高橋嘉右衛門 | 南条安右衛門 | 酒井作之右衛門 | 松前(崎)多門 | ||
5 | 『北藩風土記』 天明末~寛政初 〔イシカリ十三ヶ所〕 | ||||||
下シノロ | 上サツポロ | 上シノロ | 下サッポロ | ハツサフ | シツカリ | ||
小林安左衛門 | 目谷才右衛門 | 高橋平蔵 | 南条安右衛門 | 酒井弾次郎 | 松崎多門 | ||
6 | 『西蝦夷地分間』 天明末~寛政初 | ||||||
ナイホウ | 上サツホロ | ツフカルイシ | 下サツホロ | ハツシヤフ | 下ツイシカリ | ||
小林丈三郎 | 目谷才右衛門 | 高橋平蔵 | 南条安右衛門 | 酒井周蔵 | 松前(崎)三太夫 | ||
角屋藤兵衛 | 阿部屋専八 | 阿部屋専八 | 阿部屋専八 | 八森屋文六 | 斎藤屋武右衛門 | ||
二〇両 | 三〇両 | 三七両 | 四〇両 | 三五両 | 三五両 | ||
7 | 『東西蝦夷地場所附』 寛政四年 〔石狩拾六ヶ所〕 | ||||||
下シノロ | 上サツボロ | 上シノロ | 上サツホロ | ハツサブ | (記入なし) | ||
小林平左衛門 | 目谷才右衛門 | 高橋平蔵 | 南条安右衛門 | 酒井作之右衛門 | 松崎太次右衛門 | ||
比定場所 | 上ツイシカリ | シママップ | 下ユウバリ | 上ユウバリ | 下カバタ | 上カバタ | トクヒラ | |
1 | ||||||||
トイシカリ | シマヽフ | ユウバリ | カバタ | トイヒラ | トクヒラ | |||
松前貢 | 下国岡左衛門 | 松前銕五郎 | 土谷兵太 | 佐藤彦太夫 | 松前納戸 | |||
天満屋三四郎 | 大和屋弥兵衛 | 熊野屋新左衛門 | 阿部屋茂兵衛 | 大和屋弥兵衛 | 小林宗九郎 | |||
九両 | 二五両 | 二〇両 | 一〇両 | 三五両 | 六〇両 | |||
2 | ||||||||
トイシカリ | シマヽツフ | ユウバリ | ユウバリ | カバタ | トイヒラ | トクヒラ | ||
松前貢 | 下国岡右衛門 | 蠣崎三弥 | 松前監物 | 土屋丹下 | 佐藤彦太夫 | 領主御納戸 | ||
天満屋三四郎 | 大和屋弥兵衛 | 熊野屋新右衛門 | 熊野屋新右衛門 | 阿部屋茂兵衛 | 大和屋弥兵衛 | 大口屋宗九郎 | ||
?両 | 二〇両 | 三〇両 | 二〇両 | 二〇両 | 三〇両 | 六〇両 | ||
3 | ||||||||
ツヒシカリ | シママツフ | 下ユウバリ | 上ユウバリ | 下カバタ | 上カバタ・トヨヒラ | トクヒラ | カムイコウタン | |
松前貢 | 下国岡右衛門 | 蠣崎三弥 | 松前監物 | 土屋丹下 | 佐藤権左衛門 | 領主 | 領主 | |
(今は上地) | 〔運上金はカムイコタンに含まれるか〕 | |||||||
古七両 | 古二八両二分 | 古一〇両 | 古二八両二分 | 古一七両・?両 | 古二〇両 | |||
4 | ||||||||
ツイシカリ | シマアウフ | 下ユウバリ | 上ユウバリ | 上カバタ・下カバタ | トエヒラ | トクヒラ | カムイコウタン | |
松前岩松 | 下国岡右衛門 | 蠣崎三弥 | 松前監物 | 土井(屋)丹下 | 佐藤権左衛門 | 御上場所 | 御上場所 | |
5 | ||||||||
ツイシカリ | シママフ | 下ユウハリ | 上ユウハリ | 上カワタ | トエヒラ | トクヒラ | カムイコウタン | |
松前貢 | 下国岡右衛門 | 蠣崎三弥 | 松前監物 | 土屋丹下 | 佐藤権左衛門 | (記入なし) | (記入なし) | |
6 | ||||||||
カミツイシカリ | シマヽフ | 下ユウバリ | 上ユウバリ | 下カバタ | カミカバタ | トクヒラ | ||
松前貢 | 下国岡右衛門 | 蠣崎三弥 | 松前鉄五郎 | 土谷左仲 | 佐藤彦太夫 | (記入なし) | ||
近江屋三郎次 | 大和屋彦兵衛 | 大黒屋茂右衛門 | 近江屋忠四郎 | 恵比須屋治助 | 大黒屋伝吉 | 小林屋宗九郎 | ||
二〇両 | 二五両 | 三五両 | 三五両 | 四五両 | 七五両 | 八〇両 | ||
7 | ||||||||
シツカリ | シママアブ | 上ユウバリ ・下ユウバリ | 下カバタ | 上カバタ | ||||
松前貢 | 下国金左衛門 | 松前鉄五郎 | 土屋市三郎 | 佐藤加茂左衛門 | ||||
場所名・知行主名・請負人は原文のままとした。 |
表6にあげた史料のごとく、イシカリの場所数を「イシカリ十三ケ所」というようにくくって記述するようになったのは、この時期からで、それ以前にそういった呼び方はない。しかし、場所数において差異があり、『松前志』(国公文)と『北藩風土記』では「イシカリ十三ケ所」、『産物方程控』では、「石狩拾弐ケ所」、また『松前随商録』および『東西蝦夷地場所附』では、ともに「石狩拾六ケ所」と数えている。このように、イシカリ場所を家臣に給与した知行主の数は一二人で、藩主を入れても一三人で一定しているはずであるのに、場所名等も合わせて疑問点がある。
まず場所数であるが、『松前随商録』でみると、「従是石狩十六箇所の部」として表示した一五場所をあげるとともに、佐藤権左衛門の知行場所を、上カバタとトヨヒラの二場所にあげている。さらに、カムイコウタンの所では、「右は川上也、領主御台所弐ケ所」と記しているので、合計すると「十六箇所」となって一致する。このうちトヨヒラは、上カバタのうちの「小名(字名)」であるから、これは同一場所とみてよいだろう。それに、カムイコウタンをあげている史料は、『松前随商録』、『松前志』、『北藩風土記』の三種で、その前後の史料には記されていない。カムイコウタンを、イシカリの「川上」にある「領主御台所」としているところをみると、川口のトクヒラの藩主直場所と関わりを持ち、かつ運上金も一括扱いのところをみると、藩主直場所は一つであるから、川上分がトクヒラに吸収されていった可能性も考えられる。これらの点を考慮すると、藩主直場所が一場所、藩士知行場所が一二場所の計一三場所というかたちが、夏商場所の基本であったと考えるのが妥当であろう。
また、おそらくサッポロ川流域に位置していたと思われる、小林、目谷、高橋、南条等四人の知行場所名に、交錯が見られる。その一つモマフシは、『北藩風土記』では、シノロに含まれる「小名」としているし、『松前志』では、下シノロとならべてあげ、「小名」のような記し方をしている。さらに『天保郷帳』では、「イシカリ持場之内」のコトニとナイホ(ナイボ・ナイホウ)の間に「モマニウシ」をあげている。となれば、ナイホに近い場所といってよいだろう。
「チイカルシ」、あるいは「ツフカルイシ」は、イシカリ川上流域の地名を指すようで、『西蝦夷地分間』(東大史)は、イシカリ川口より三二里上流としている。また、松浦武四郎の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』では、ウリウ(雨竜)川を遡ったウリウとイチャンの間を「中川」と呼び、そこに住むアイヌを「シノロアイヌ」と呼ぶというようなことを記しているので、この辺のアイヌが下流のシノロ辺へ下っていって漁をするなどのかたちで、下流域とも関係が深く、それでサッポロ川流域の地名とならんで「チイカルシ」、「ツフカルイシ」(アイヌ語で中川の意)が出てきたとの見解もある。しかし、管見した限りでは、イシカリ川上流域に、これに類する地名を記録した史料はみあたらない。
上サッポロ・下サッポロについては、おそらく場所が近接しているため、地名の交錯、上・下の混同、誤記が少なからずあったとみるべきだろう。
このように、イシカリの夏商場所の記述のしかたからみても、夏商場所は、享保年代以後、藩士の知行主一二家の一二場所と、藩主の直場所とからなる、いわゆる「イシカリ十三場所」が記録の上からも定着したとみることができよう。
また、請負人は、『産物方程控』では、近江商人系は天満屋、大和屋、浜屋の三軒のみで、あとは阿部屋をはじめ新興商人が多い。それが、『西蝦夷地分間』段階になると、近江商人では天満屋、浜屋はしりぞき、代わりに近江屋、恵比須屋が入るなど、相当に入れ替わりがみられる。不漁とも関係するのであろう。
一方、運上金においてはどうであろう。『産物方程控』と『西蝦夷地分間』段階では、わずか数年間の違いと思われるが、運上金合計は、前者が三一六両に対し、後者は五〇七両と、一・六倍を示し、請負人ごとの運上金額では、前者は阿部屋、小林屋、大和屋だったのに対し、後者は大黒屋の進出が目立つ。生産高と、流通部門に変化があったのかもしれない。