一体場所之儀も連年不猟勝ニテ、既去ル辰年之義は、御用聞共へ千五百両ニテ預ケ地ニ相成、猶巳、午、未と三ケ年は弐千五百両ニテ松前町人共請負、其後五ケ年季ニテ弐千五百両之請負迄ニは相成候得共、案外不猟打続候故、半途ニテ御免ニ相成、
(阿部家文書 東京都阿部正道氏蔵)
ここで、辰年というのは、文化五年を指しているので、すなわち、文化五年には御用聞商人(伊達・栖原)に一五〇〇両で「預ケ地」=請負にしたことをいっている。おりしも、漁模様はよくない状態が続いたようである。さらに、翌六年から三カ年は、松前町人たちに二五〇〇両で請負わせ、その後五カ年というから、同九年から同十三年までの間二五〇〇両ずつで請負わせたが、不漁のために中途で免じてしまったというのである。
ここでいう、「半途ニテ御免」については、表向きは不漁を意味していたようであるが、内実は、同十二年段階にイシカリ場所経営が行き詰まりをみせたからにほかならない。というのは、同十一年秋、秋味漁を前にしてイシカリ秋味漁の請負人が、突如請負を放棄するといった事態が生じてしまった。このため、松前奉行所の役人をイシカリに派遣して取り扱わせたところ、「夏場所之内五ケ所請負人取斗方不取締之義有之。蝦夷人介抱難行届、難儀および候様子」といった、夏商五場所の「不取締」まで指摘されてしまった。このため、松前奉行では、その措置として入札・吟味を行わないままに、これを松前町人の有力者である阿部屋伝兵衛と山田文右衛門の二人に、「夏漁之方五ケ所ニテ是迄之通三百弐拾両、秋味之方も運上金是迄之通弐千弐百両ニテ、当亥年より卯年迄五ケ年」(同前)間、預けようとした。ここで亥年とは、文化十二年を指すから、文化十二年より五カ年間夏商五場所と、秋味漁の請負を任せようとしたらしい。ところが、山田は同十二年限りで辞退したので、翌年からは阿部屋の請負になったようである。
同様の意味の阿部屋のイシカリ夏商場所請負に関する記録は、『村山家資料』(道開)のなかにも見られる。文化十一年十一月五日付の次の書付がそうである。
このように、イシカリ場所のうちトクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、下ユウバリ、シママップの五場所ということは、後述する表1によれば、米屋孫兵衛の持場ということになる。阿部屋は、文化十二年イシカリ夏商のうち五場所を手に入れ、翌十三年には、上ユウバリ場所を請負っていた竹内喜久右衛門が年季途中の同十二年限りで返上したので、翌年の跡請負を入札によって阿部屋熊次郎が引き受けたことになっているし(蝦夷地御用見合書面類)、イシカリ場所の権益を次第に拡大させていった。そして、文政元年(一八一八)になると、「当年(文政元年)より十三ケ場所幷秋味共伝次郎之一手に被仰渡候」(松浦武四郎 野帳巳第一番)とイシカリ場所の夏商、秋味ともに阿部屋の一括請負となった。この一括請負になる時期を、入札によって請負った文化九年から五カ年の年季明けとなる文化十四年とみる見方もある。ちなみに、イシカリの夏商、秋味請負人・運上金等を、直轄になった文化四年以降について掲げると表1のようになる。
表-1 イシカリ夏商・秋味請負人・運上金(文化4~文政元年) |
場所名 | 文化4年 | 文化6年 | 文化12年 | 文政元年 | ||||||||
夏商 | トクヒラ | 米屋孫兵衛 | 100両 | 米屋孫兵衛 | 100両 | 阿部屋 | 320両* | 阿部屋 但し疱瘡流行により半減 | 両 | |||
ハッサム | 米屋孫兵衛 | 50 | 米屋孫兵衛 | 40 | 阿部屋 | * | ||||||
上サッポロ | 浜屋甚七 | 70 | 浜屋甚七 | 65 | ||||||||
下サッポロ | 京極屋嘉兵衛 | 70 | 佐々木屋嘉兵衛 | 70 | ||||||||
シノロ | 筑前屋清右衛門 | 50 | 筑前屋清左衛門 | 50 | ||||||||
上ツイシカリ | 米屋孫兵衛 | 60 | 米屋孫兵衛 | 50 | 阿部屋 | * | ||||||
下ツイシカリ | 直次郎 | 50 | 畑屋七左衛門 | 50 | 678余 | |||||||
上ユウバリ | 宮本屋弥八 | 47 | 畑屋七左衛門 | 70 | ||||||||
下ユウバリ | 近江屋利八 | 50 | 米屋孫兵衛 | 35 | 阿部屋 | * | ||||||
上カバタ | 相野屋伊兵衛 | 120 | 佐野屋伊兵衛 | 70 | ||||||||
下カバタ | 京屋勘次郎 | 40 | 京屋勘太郎 | 50 | ||||||||
シママップ | 米屋孫兵衛 | 45 | 米屋孫兵衛 | 40 | 阿部屋 | * | ||||||
ナイホ | 梶浦屋吉平 | 25 | 梶浦屋吉兵衛 | 30 | ||||||||
合計 | 777両 | 720両 | 678両永175文 | |||||||||
秋味 | 文化5年 | 文化6年 | 文化8年 | 文化12年 | 文政元年 | |||||||
伊達・栖原 | 松前町人 | 伊達・栖原・阿部屋 | 阿部屋 | 阿部屋 | 但し疱瘡流行により半減 | |||||||
1,500両 | 2,500両 | 2,200両 | 2,250両 |
1.文化4年は、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』によった。 2.文化6年は、『村鑑下組長』(松前藩と松前 25号)によった。 3.文化12年と文政元年は、『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書)によった。*印は、阿部屋の五場所の計を示した。 |
夏商では、文化四年では請負人の米屋孫兵衛が、トクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、シママップの計四場所を運上金二五五両で請負っていたが、同六年段階では、下ユウバリも加わって、計五場所の二六五両となっているのがわかる。さらに、同十二年では、米屋の請負っていた五場所をそっくり阿部屋が三二〇両で請負ったかたちになる。十三場所の夏商高が全部で七〇〇両余であるので、約半分の権益を保持したことになる。それが、文政元年、イシカリ場所の阿部屋の一括請負となり、夏商の運上金は六七八両永一七五文となったのである。
一方の秋味請負が、寛政十一年(一七九九)、阿部屋に藩直支配の手付として任されたことは、第四章で触れたとおりである。文化四年の西蝦夷地直轄時には、「六千五百石宛年々栖原屋引請」(西蝦夷地日記)といったように、栖原屋が請負っていた。
写真-1 石狩八幡神社石鳥居
文化10年、場所請負人栖原屋・米屋が寄進(石狩町弁天町)。
同五年以降は、前述した入札によったものらしく、同五年が御用聞商人によって一五〇〇両で、同六年から三カ年間は、二五〇〇両ずつで松前町人に任され、同八年には、伊達屋、栖原屋、阿部屋三軒で預かっている。
同十二年以降は、前述した経緯で阿部屋単独で二二〇〇両で請負っている。文政元年は、夏商同様に阿部屋の一括請負となり、秋味運上金は二二五〇両であった。しかし、後述するように、阿部屋は、文化十四年の疱瘡の流行により、多くの働き手を失ったために漁ができないことを理由に、運上金の減額を訴え、夏商・秋味ともに半減してもらっている。
こうして、この時期の請負方式は、より大きな資本力を持つ請負人の手へと移り、阿部屋の一括請負は、幕末のイシカリ改革まで継続されることとなった。
写真-2 石狩弁天社御神燈
文政12年、村山・栖原が寄進(石狩町弁天町)。