こののちもイシカリ川の不漁は、なかなか回復しなかった。その間に上ツイシカリのシレマウカ夫妻も次第に年老いて言語も自由にならないほどとなり、おまけに子供が若年のためイシカリの運上屋の「介抱」を受ける始末となっていた。
そのような折、文化十年(一八一三)東蝦夷地内に、廃止されていた場所請負人が復活した。その機会をとらえて、シレマウカは再びイシカリ詰の幕府詰合にウライ返還を求める訴願を提出した。同年六月付のイシカリ詰合平島長左衛門宛の内容は、生活の困窮と祖先以来の墓所を回復して孝道をつくしたいので、少しばかりの場所役として干鮭を差し出しても構わないので、ウライの回復を願いたいというもので、上ツイシカリの通詞幸吉と、トクヒラの支配人善三郎の奥書付きであった。
これを受けてイシカリの幕吏たちも、シレマウカのウライ事件顛末について調査した。その結果、同年十一月付の上ツイシカリ通詞幸吉、下ユウバリ通詞定右衛門、トクヒラ通詞万右衛門の調査した限りでも、次の四点が明確となった。
①上ツイシカリの知行主松前勇馬(天明末~寛政初年の『西蝦夷地分間』では、上ツイシカリの知行主は松前貢、請負人近江屋三郎次、運上金は二〇両であった)の主要産物である干鮭は、千歳川領イザリブト、ムイザリの両場所、すなわち上ツイシカリのシレマウカのウライ所有場所から産出するものであって、東蝦夷地の直轄によって没収された。
②シレマウカのイザリブトの二カ所のウライのうち一カ所は、通行屋普請に際し没収されたので、今は一カ所のみである。没収されたムイザリのウライは年にもよるが、干鮭が一四〇〇~一五〇〇束収納できたが、唯一残されたイザリブトのウライは、今では産物はいたって少なく、食糧だけでも足りないくらいである。
③シレマウカがウライを没収されてから、もはや一〇年以上が経過し、シレマウカの暮らし振りも悪くなる一方で、所持する財宝も売りつくして、請負人から手当を受けているありさまである。
④上ツイシカリのアイヌは、ウライ没収以後、イシカリ川筋の長びく不漁によって、住人のほとんどが今ではイザリブト、ハッサム、トウベツブト方面に離散してしまい、上ツイシカリは無人と化している。
このような報告書を踏まえて、同年十二月には、イシカリ十三場所内の米屋孫兵衛請負のハッサム、下ユウバリ、上ツイシカリ、シママップ、トクヒラ五場所の通詞たちは、連名でイシカリ詰合平島長左衛門宛に、シレマウカのムイザリウライの返還を要求する願書を提出している。しかも、ウライ復活の条件として、ユウフツ場所請負人阿部屋と、イシカリ場所のうち五場所請負人の米屋と双方が熟談のうえ、米屋から阿部屋へ運上金を上納したらよかろうというものであった。
それを受けて、同年十二月二十三日付でイシカリ詰合平島長左衛門からユウフツ詰合の石坂、福井、露木宛にその件について掛け合いが行われた。しかし、この時も何ら解決の方向を見出さないままに終わっている。