安政期に水戸藩がイシカリ・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが、領民の進出を契機に藩士が藩務としてここを調査することになった。大津浜グループがイシカリの鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩としての対応を考えるための実地検分である。主目的のほかに、水戸領内の物産(粉コンニャク、茶等)を箱館からアメリカ、ロシア、中国等に輸出することはできないか、箱館奉行所と、折衝する任も帯びていたようだ。
イシカリ・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)という人。『水戸藩御規式帳』(万延元年)の御用部屋留附の項に「列、下勘」とあるから、列座、勘定方下役だったのだろう。彼に大津浜グループの市右衛門、権十、藤七、源四郎が加わり、従者を含め一行は六人だった。安政五年(一八五八)八月十五日水戸を出発、津軽海峡を渡るため大澗で一〇日間も風待ちし、九月二十日箱館に着いた。まず奉行所で勝右衛門の発令にかかわった組頭河津三郎太郎に会い事情を聞き、イシカリ詰責任者荒井金助宛の書状を託された。九月二十五日箱館発、オシャマンベからクロマツナイ越をしてイワナイ、オタルナイを経て十月七日イシカリに到着、一行の宿として勝右衛門は佐渡屋八右衛門の座敷を借りておいた。
安政三年以来急増する諸藩の蝦夷地調査の大半は春から夏にかけてで、生田目のように八月から十一月という人はまれだった。鮭漁期の十月七―十二日をイシカリ滞在とし、大津浜グループの漁業の実態をつかもうとしたのである。調査は網引場の位置、船、網などの設備、漁小屋、切り蔵などの施設、さらに雇人、仕込み(金主)、漁獲高、役鮭(税)等広い範囲にわたった。この見聞をもとに次年度のあり方を検討した。網の入れ方、引き方はこのままでいいか、網の改良をどうするか、沖合で鯡漁(にしんりょう)はできないか、金主の仕込の見通し、新道開削の準備等にも意をそそいだ。藩としては領民の出稼に資金貸与はしないつもりでいたが、彼等があまり窮迫するようでは藩の体面にかかわり外聞もよくないので、河津や荒井の意見もあることだし、拝借金名目で一〇〇〇両を貸与するのはやむを得ないだろうと判断した。
生田目の調査は、ほかにイシカリにおける従来の場所請負のあり方、アイヌの動向など地域全般に関心をはらい、さらに帰途エベツブトの実地検分を行った。ここから上流の新規開発を大津浜グループが始めることになっており、エベツブトにその拠点となる元小家の設置を予定したからである。その際、イシカリ川を遡る鮭魚がここから支流の千歳川に入る分は七割、本流をすすむのは三割だという聞取りはおもしろい。ツイシカリからエベツブトにかけてのこうした調査は、箱館奉行の思惑と示唆が背後にあったと思われる。
調査の一行は十月十二日イシカリ出立、エベツブト検分のあと千歳越ルートを経て十月二十三日箱館着、翌十一月二日そこを立って水戸へ帰った。水戸の到着日は明らかでないが、十一月下旬にはもどり、直ちに復命がなされた。市立函館図書館蔵『生田目氏日記』はその写本であり、これによった刊本として「市立函館図書館多与利五三二号」(昭和三十三年)と「那珂湊市史料三集」(昭和五十三年)所収のものがある。