明治十一年七月に出された郡区町村編制法にともない、これまでの大小区制が廃止され、それ以前の郡(区)町村制が復活となった。このため、開拓使でも十二年十月十五日に従来の大小区制に付随する戸長、副戸長制が廃止となった。またこれより先に、郡や諸村を統轄する郡長、戸長の職制が七月二十三日に定められた。新たな郡長、戸長制は十三年二月から開始された。
札幌の場合は、当初札幌郡はおかれずすべて札幌区に編入され、札幌区長が札幌市街(区)とともに諸村の事務を取り扱った。しかし十七年四月一日に至り、札幌郡が改めて設置されて諸村は札幌郡に編入となり、市街のみが札幌区となった。ただし郡役所は区役所に併設され、札幌区長が札幌郡長を兼任していた。札幌区長は発足当初より石狩、空知、夕張など一三郡(のちに一六郡)の郡長を兼ねている。
札幌の周辺村は五ブロックに分けられて、一人の戸長が数カ村の戸長を兼ね、各戸長の自宅に戸長役場が開設された。戸長の任命は二月に行われた。
山鼻・円山二カ村戸長 大堀忠八(山鼻村一一四番地)
琴似・発寒・上手稲・下手稲四カ村戸長 管野格(上手稲村四〇番地)
豊平・上白石・白石・平岸・月寒五カ村戸長 片倉景範(上白石村四番地)
札幌・雁来・苗穂・丘珠・篠路五カ村戸長 坂野元右衛門(苗穂村二七番地)
対雁・江別二カ村戸長 千葉瀬兵衛(対雁村七八番地)
琴似外四カ村戸長役場には、十五年十二月二十二日に設置となった山口村も加わった。戸長の顔ぶれをみると、いずれも元の戸長、副戸長の経験者が採用されたが、この度は片倉景範が准等外一等(月俸一〇円)、大堀・管野・坂野・千葉が准等外二等(八円)の等級を得、村落行政を担う開拓使官吏の位置についた。戸長はすべて官選で、はじめは各村や地域の実情に通じた人物が選ばれ民意の反映もはかられていたが、やがて地域との縁故を欠く者も就任し、官僚的な村落行政が推進されるにつれ種々の弊害も生じてきた。
戸長を補佐する事務吏員としての村用係も、この年(十三年)五月から各村に一人ずつおかれるようになった。村用係は従来の副戸長、総代、副総代の経験者が多いが、これは民意の反映というより、実務や村事情に詳しいことにより採用されたとみられる。
五ブロックに分けられた戸長の配置は、開拓使が廃止となる十五年一月まで継続され、この間、戸長の任免の異動はなかった。