[注: 文中の屋号は、〓で表示されています。屋号は、刊本閲覧から画像でご確認いただけます。]
明治十五年(一八八二)に始まる不換紙幣の整理による不況は四年後の十八年に及ぶが、その間北海道の行政は札幌、函館、根室の三県に分割され、官営工場の経営は別途北海道事業管理局の管理下に置かれ、経営方針は二途に分かれた。加えて札幌は十五年の豊平川の氾濫、蝗(バッタ)の被害、十六年の日照・凶作等の影響をうけて商況はさらに振わなかった。やがて政府の紙幣整理も一段落して全国的に好況へ向かった十九年、札幌、函館、根室の三県並びに北海道事業管理局が廃止されて、北海道庁の設置となった。これを受けて北海道の施政が一本化し、かつ官営工場の払下げが本州資本の北海道への呼び水ともなり、札幌の市況も好転して移住者も日に増し、戸口も表11のように増加していった。
このため札幌市街地の区画拡張も意図され、道路の開削、泥濘の道路に砂利の投入、下水溝渠の付設、橋梁の設置もなされて市街地も逐次整備され、また札幌郊外の原野も排水工事を行った結果、区内外に次々に移民がみられるようになった。この時の札幌の市況を二十年五月刊行の『札幌繁栄図録』(以下繁栄図録と略記)や二十四年刊行の『札幌繁昌記』(以下繁昌記と略記)に垣間見ることができる。『繁栄図録』には官庁、学校、官邸、工場並びに商店など一〇〇余軒の線画による絵図が掲載されている。載せられている官設の建物はほとんど大通以北にあった。ただ『繁栄図録』刊行時には、北海道庁の仮庁舎はまだ南一条西三丁目(現三越)にあり、北三条西五丁目の現在地に新築移転するのは二十一年十二月のことである。したがってこの時期、西三丁目の南側は現在とはいささか風物を異にし、高級料理店兼旅人宿の弥生楼、北辰楼があり、この二楼の合い間に官営工場の諸製品販売に官庁御用の文具筆墨を手がける〓岡田佐助商店、〓今井呉服店から独立して呉服太物・西洋織物雑貨を卸小売する〓石田九平商店が並んでいた。また西四丁目には官御用の建築請負の〓水原寅蔵、畠山六兵衛並びに経師請負の鈴木善兵衛、官設払下げの機織場を経営する呉服太物商の〓安田徳治、米穀荒物商の〓久慈勘吉らの商店が所在していた。道庁が新築移転後、その跡地は一般の商店に払下げられ、金物陶器商の〓長谷川亀次郎、小間物玩具の〓野原昌三、小間物類の〓南部佐七などの商店が並び、南一条通西一兆目から四丁目までは札幌の銀座街となっていく。
一条通西一丁目北側の東角は三井銀行札幌出張店、続いて西並びに小間物商の〓松岡圭之助商店、続いて種物商の〓細川勘次郎店、度量衡・陶漆器・硝子金物類販売の田中重兵衛店、西角が呉服太物・洋服合羽・和洋小間物・靴木履類等卸小売の〓今井藤七店(籐七はまた足立民治と共に官設の製糸所の払下げをうけ・絹糸・真綿類の販売も行う)がある。一条通を挟んで南側西一丁目は条丁目の区画制を異にして南二条西一丁目で表示されているが、東端から荒物雑貨卸小売の〓新田織之輔店、続いて西側に宮原景雄、岡田佐助、木原慶輔らと共に官営の新製粉所の払下げをうけた米穀味噌醤油卸の〓後藤半七店、そして薬舗〓秋野幸三郎店、仲小路を挟んで西側に〓本間徳太郎店、南一条通西二丁目の北側、現在の丸井今井のある所に米穀・荒物卸小売の〓木原慶輔店がある(木原の店が移転しその跡に丸井今井が洋物店を出したのは二十一年)。続いて西並びに和洋菓子製造の〓今立直吉店、〓山本喜兵衛薬店、塗器・瀬戸物・金物・小間物卸小売の〓長谷川栄助店、小間物・下駄・荒物の〓杉原吉松支店がみられ、南一条通を挟んで西三丁目の南側には東端から呉服・和洋小間物・書籍・筆墨紙類販売の〓北盛堂石塚吉三郎店、続いて西側に馬具・帽子製造の黒柳喜三郎店、味噌醤油販売の〓大谷長七店、ブリキ細工の〓朝明門七、珍菓製造の〓山崎長次郎店、西洋麪麭(パン)製造の木村清四郎店、〓の分舗小間物卸小売の新田由平店がある。
南一条の繁華な場所はまず西一丁目から四丁目までで、これら一条通の商店は財力があり、その多くは二階建の本建築、白壁の土蔵を備え、一戸分が奥行二七間、間口五間の一、二戸分の商店で、食料品と衣料品小間物雑貨を売る店は大方区分されている。
店の入口には軒下から地上に届く雨風よけにもなる屋号入りの大暖簾(のれん)が架けられ、店に入ると四、五メートル幅の土間、その奥は三〇センチ程高くなった土台に畳を敷いた広間がある。客はその上り口か出された椅子に腰を掛け、番頭は畳に座って客に応対し、客の求めに応じて小僧を呼び商品を奥の倉から運ばせ、それを客に売る座売方式である。小間物類などはケースに入れて畳の上に陳列してある。
写真-1 座売りの図(札幌繁栄図録)
この明治二十年代はじめ洋品・呉服・小間物雑貨卸小売の〓今井、〓石田商店は一日三、四百円、荒物雑貨の〓新田、〓後藤の商店は年間一〇万円程の売上げがあったとあり(繁昌記)、〓今井にせよ〓石田商店にせよ共に年間の売上で計算すると一〇万円を超えていた計算となる。
この南一条通西一~四丁目間の商店は、小売のほかに卸売も兼ね、一面札幌の問屋街を形成していた。南一条通でも東一丁目以東、西五丁目以西及び南二条通以南の商店と性格を異にしており、したがって卸を兼ねた店の拡大をはかろうとする商人は皆この地区への進出を意図していた。
南二条通西一丁目~四丁目間は一条通と趣きを異にし、『繁昌記』には「生魚の御用は南二条の一丁目に市場あり」と記されているが、この市場の詳細なことはわからない。ただすでに海産物商の〓富樫長吉がここに店を構えており、『繁栄図録』には小口平二の牛肉氷店(西二丁目)があり、またお茶舗の北春堂(西三丁目)、寿園堂(西二丁目)、会席料理店の新盛楼(西三丁目)、東京庵(西四丁目)、寄席の東座(西二丁目)、鈴木清吉理髪店(西三丁目)、〓北魁湯(西一丁目)などが記載されており、一条通と異なった雰囲気を持った通りとなっていた。
狸小路商店街の雰囲気を覗かせるものに南二条西二丁目に〓有渡熊吉の古着・太物・和洋小間物商が『繁栄図録』にみられるが、西二丁目通にはこの時期にはすでにこのような古着類、仕立洋服、合羽類、腹掛股引足袋仕立物、洋傘、帽子、カバン等々を売る商店が並んでいた。この古着類は店内に展示し、客がその善し悪しを選んで買ったもの、場合によっては値引のかけ引きもあるので賑かな店頭となる。これら古着類・古物等の商店は質流れ品が主で、古物類で金を貸す質屋はこの『繁栄図録』では〓向井甲(南四西二)、〓谷吉三(南三西三)、〓山崎孝太郎(南四西四)の三商店だけが記載されているが、質屋は二十三年末で札幌に一五店を数えている(繁昌記)。なおこの時期西二丁目通には武林盛一写真館(南三西一)と岩井信六靴店(南三西二)があった。
狸小路で商品展示販売の店のもう一つは勧工場である。勧工場は十八年四月狸小路(南二西三)に柿村信蔵が設けたことに始まる。当時の勧工場は二十五年五月の大火で焼け全貌は分からないとされるが、撞木形(しゅもくがた)(T字形)であったとされているから狸小路側の入口の方には両側に何軒かの雑貨店があり、商品を並べ売りながら勧工場への呼び込みを行っていたものであろうか。再建された後の勧工場からも考えられることは次の本通へ抜ける仲小路通の両側に市場式に二、三十くらいの小間割にした和洋小間物・書籍・玩具・煙草・雑貨や缶詰・菓子なども並べて販売する商店が並んでいた。『繁昌記』はさらにこの東隣に東勧工場があったと記載する。
なお狸小路には勧工場の外、二丁目に芝居小屋立花座(東座)があったことは前述したが、なお四丁目に市川亭と称する寄席があったとある。この頃二丁目から四丁目あたりに私娼を置く飲食店が多く、私娼街を形成していたとされるが、二十五年五月狸小路四丁目から出火した大火を機に警察の取締りがさらに強化され、ために一方薄野の貸座敷免許地に私娼を置く飲食店を移転させ、薄野で貸座敷を営むものが増して、狸小路から私娼が姿を消して行く。
南四、五、六条の西三、四丁目は廓街で、『繁栄図録』には昇月楼、北海楼、花月楼など九楼が記載されている。遊廓の南は中島遊園地で、この年次に開発され、共進会、品評会の開かれる折使用する出品陳列場及び事務所、競馬場が設けられていた。
創成川を挟んでの東側、南一条から四条までの間は、『繁栄図録』には建築請負師三、材木商一、宿屋四、酒類醸造販売店三、製粉所一、小間物、荒物、雑貨店がそれぞれ一軒ずつ掲載されており、下町風情を示している。