2巻 亨

 
むしくらにつき 亨
   
◯鈴木藤太の話
手代鈴木藤太は念仏寺村臥雲寺に泊まり、庫裡の上段の間で終日取り調べや書き付けなどしていましたが、北西の方角から山々も一度に砕け覆るほどの音がして、寺もたちまち潰れそうに思われたので、驚いて筆と帳面を持ったまま東の庭に飛び出しますと、庫裡は早くもひしひしと押し潰れます。藤太は心の中で、宵のうちに住持に隠れて魚を食べたが、こんなに名高い霊場を穢したのは私の間違いだ、その祟りで天狗か山神が怒って懲らしめているのかと疑いながら、囲いの塀に風通しのため簀を張ってある所を押し破ってくぐり出て、暗い中をたどって裏の麻畑に出ました。この畑の中に一抱えほどの大木があるのを昼に見てあったので、この木にしがみつきましたが、何やら麻畑を押し分けて這って来るものがあります。これは猛獣だろうかとまたさらに驚いて星明かりに透かして見ると、この寺の庫裡の婆が赤裸で這って来るところでした。すぐに同様にこの木にしがみつきましたが、たちまちこの木がずるずると一丈ばかりも抜け下ったので、これではたまらないとまた逃げ出して考えたことには、この寺の名高い三本杉が大門のあたりにあった、あれほどの老木なら根もしっかり張っているだろう(この杉は根元で差し渡し6尺ほどあるといいます)、あの木の下に行けば安全で命も助かるだろうと、なんとか探しながら行きましたが、多くの雑木が倒れ重なり、暗くもあり、その大杉が見えないので、さてはこれもどこかへ行ってしまったかと不審に思い、その木の少し脇にある観音堂に上ろうと思いましたが、観音堂がはるかに見上げるほどの所に見えます。これは自分の足下も抜け落ちたのだと恐れ驚きながら堂を目指して登って行くと、人の声が聞こえたので力を得て、足を踏みしめて進み、ようやく堂の前に着いてみると、ここは抜け覆ることもなく、住僧をはじめ寺に居合わせた者は庫裡の潰れた下から這い出て、さきほどの婆までも皆ここに集まっていました。そのうちに村の男女も追々逃げて来て、怖れおののきひたすらに大悲(観音菩薩)の御名を唱える者も多くいました。藤太は、地震の時は昔から火事になることが多いと聞いている、今の出来事がもし地震なら火事が起こっているだろうと思って見ていますと、潰れた庫裡から火が燃え出て、またあちこちに猛火が盛んに起こっています。やはり地震だったのかと初めて悟り、燃え出した庫裡の方をつくづくと眺めていると、火煙が盛んに燃えながら、次第次第にはるか麓まで、およそ150~60間も下ったと思われる辺りは、火に照らされ真昼のように明るくなっています。また虫倉岳や萩野城の方角で震動が激しく、幾千の雷が一度に落ちかかるような音がするのは、まさに土砂崩れが岩石や樹木を押し落とす音でしょう。女の子は生きた心地もなくただ泣き叫ぶばかりです。この村の医師玄理の子、利左衛門は寺にいて手伝いをしておりましたが、鳴動して寺が倒れるばかりの時に、駆け出して自分の家に行きました。家は潰れかかって今にも倒れそうでしたが、かまわず駆け込んで母を助け出して外に置き、また駆け込んで火を消し、母を背負って危険な道を何とか辿って観音堂まで来て、息を切らしながらこのことを話しました。藤太は感心して、「孝行息子が来ましたぞ、天もお助けになるでしょう、ここは崩れたりすることもないはずです、皆さん安心してください」と言いますと、皆この言葉に力を得、励まされて、空が明けるのを待っていますと、やがて東の空が明るくなって、見渡してみると東西南北前後左右、ことごとく抜け崩れたその中に、この大悲閣の周り20間四方ほどのところだけがもとのままに残って、堂も傾かず、5、60人の者がここで命拾いをしたのは、不思議という言葉では足りない、これこそまさに大慈大悲のご利益というべきものでしょうか。さて人々は宵のうちから駆け回って空腹になって来たので、何か食べる物はないかと見回してみると、堂からずいぶん下った所に潰れかけた1軒の家がありました。この家から米1斗と釜1つを持って来て、飯を炊こうと火をおこして焚き付けようとしたその時、またもや鳴動して強く揺れると思っているうちに、たき火している端に大きく地割れができました。どうしたことだと皆驚き騒いで逃げ出すのを、藤太は制して、「皆腹が減っては息も続かないでしょう。釜の中の生米をそれぞれ手で掴み、食べながら逃げなさい」と言って、自分でまず掴んで出立しようとしましたので、村の大人たちは皆、藤太の行く道をあちこと指示して心配しましたが、藤太は「いやいや、私は松代へ戻るだけのことです。あなた方は家が潰れ怪我をした者もあるでしょう。はやく家の面倒を見て、怪我をしないように道を探しておいでなさい」と言いながら、岩草村の方を目指して行きました。以前から寺に雇われていた人足も2、3人一緒に行きました。さらに村の者2、3人も、ともかく道案内をしようと先に立ち、這ったり木の根にすがったりして行きましたが、新たに崩れた所なので、膝の上まで泥に踏み込み、さらに崩れて2、3尺或いは4、5尺も落ちて転ぶと、後から手を出して引き上げ、後の者が転ぶと先の者が振り返って引き上げたりしながら、互いに命がけで助け合って、ようやくこの村の三ケ野組に出て、少し土砂崩れの箇所も間遠になったのでここで一息つき、そこから岩草村の性乗寺の前に出ました。ここにあった潰れかかった家はこの村の組頭の家だったので、少し休ませてくださいというと、蕎麦がきを作ってふるまい、また徳利の酒を取り出して「このような災害の中なので、おもてなしするわけではありません、昨日神酒にと買い求めておいた残りです。飲んで元気をおつけなさい」と熱心に勧めますので、その気持ちを嬉しく思って受け取り、少しいただいて元気をつけました。ここから念仏寺の者たちを帰し、新しいわらじを求めてしっかり履き、身繕いをして出発しました。橋詰・五十平・倉並・坪根・宮野尾・吉窪などの土砂崩れの難所を通り、小市を渡って初めて生き返った心地がしたということです。
ちなみに、この村の梅吉という者は檀家の世話人で、特別に役目をわきまえた者でした。この夜も来て世話をしていましたが、寺の者は皆助かった中で、この者だけが圧死したのは無惨なことです。一人息子を為之助といい、元締役水井忠蔵が救援のために山中の村々を廻った時、真っ先に願い出て、貯蔵してあった大豆10俵を寄付し救援にお使いくださいと差し出しました。家に帰ってからこのことを母に報告しました所、母はこれを聞いて、それでは足りないといって、さらに10俵を寄付しようと申し出ましたので、為之助は走って忠蔵の次の宿泊所まで行って申し出ました。夫の死を嘆く中にもこのように心配りをして寄付をしたことを褒め称えない者はありませんでした。
殿はこれをお聞きになって、為之助の母が高齢ならば早く褒美を与えなさいとおっしゃいました。郡方で話し合って、梅吉は五54、5歳であったので、その妻はまだ50歳にならないであろう、ならばゆっくり事態が落ち着いてから褒美を与えよう、ということで沙汰止みになりました。
またこれから数日後、磯田音門が御救方として出向きこの辺りを調査したところ、臥雲院は山中としては類いまれな大きな霊場でしたが、揺り寄せられたためか、焼け残った基礎はたいへん狭くなって、以前の3分の1ほどとも思われました。庭はそのまま残って、かの七不思議の内の1つと聞く要石も泉水の際にそのままあり、水も湛え木草も茂っていますが、たいへん狭くなって形が残っているばかりです。今度のご巡見の時にご本陣になるはずの所だからと、その準備に建てた駒建だけは倒れもせずにそのままにあります。大門の敷石もそのままあって、例の三本杉は寺と一緒に揺れ下り、倒れかかっていると話していました。
   
◯犀口の普請所で10日余りの間、日々1000人前余りずつの食事と酒と、味噌汁も毎回かき立て汁にして配給しました。1人前2合5勺平均で、実は3合ずつよそ者にまで与えられました。(役人も同じ賄です。酒は茶碗2杯ずつ、小市の塚田源吾が献上したといいます。)家が潰れ、職を失い、食物を失い、飢えていた人々は日々十分食べることができて殊の外有難がったとのことです。代官が担当して代わる代わる出て指揮をしました。炊き出しの場所は段野原土堤の上と横とに穴を掘り、釜を7つ並べて炊きました。この炊き出しは皆女の役目で、椀に盛ったり、握り飯にしたり、味噌や塩をふりかけたりなどして、たいへん忙しかったといいます。町方から急に500人の人足を出した時には、とりわけ女たちは目の回るような忙しさで働いたと聞いています。
 
◯27日に貫実子が普請所に出張した時、郡中横目付の綿貫新兵衛が参って申すには、「近ごろ病気で引きこもっておりましたが、このような大災害のときに安閑と枕を高くしているのはあまりに申し訳ないので、無理に月代も剃らないまま参りました。お役に立たなくても、例の山平林のせき止め箇所を見回り、小市の御普請所も見て、川中島を廻って人々を諭すなどすれば、たいしたことはなくとも少しはお役に立てるのではないかと思います。構わなければあちらに遣わしてください」と何度も頼みますので、このことを殿に申し上げたところ、「病気をおして参ってこのように申す気持ちは立派なことだ。行きたいというのなら遣わしなさい」と仰せを受けたので、また呼び出して、願い通りに遣わすが、まず犀口に行って貫実子にその旨を告げて許可を得てあれこれ打ち合わせるようにと申しますと、綿貫は満面の笑みで意気揚々と出かけました。それから犀口に行き、貫実子に頼んで山平林に登り、せき止め箇所を検分し、その後対策を提案しました。「流された家がせき止め箇所に多く引っ掛かっていて、その上所々に浮き上がっているものも数百軒あります。やがてせき止め箇所に水が溢れた時この家々が一度に突き掛かったならば、そのために水の勢いが増してたいへんな被害をもたらすでしょう。そこで太い縄を何本も用意して、繋ぎ止められるものは繋ぎ止め、繋ぎ止められないものはみな火をつけて焼いてしまえば、焼け残るのは水に浸った材木だけなので、湛水に流れ寄せても被害は出ないでしょう」としきりに請うので、話し合ったところ、心許ないことだが一理なくもないだろうと、彼のいう通り、翌日から山中出役の者に言って数日のうちに実行されました。焼いた方は少しは役に立ちましたが、繋ぎ止めた方は、どんなに太い縄も水が引いた時にぷっつりと切れ、皆押し流されて、絵に描いた餅となりました。
ちなみに、久米路橋も繋ぎ止めてありましたが、水が引く時に流れ砕けて、橋桁があちこちに散乱しました。この橋は今年架け替えを願い出て、そのうち普請をするはずでした。新調してからでなかったのはせめてものことでした。
佐久間修理が提案した対策は、例のせき止めの大岩に8尺四方で深さ8尺の穴をあけ、中に地雷を仕掛けて岩を焼き砕けばいいのではないかということでしたが、穴に仕掛ける地雷には多額の金を使わなければならないし、殊に10丁もの間に石に穴をあける石工の手間賃はどれほどかかるか、その費用で掘割させた方がよほど益があるだろうと、話し合いの結果これも取りやめになりました。(ある人はボンベン砲で岩を打ち砕いたらどうだろうかと言いましたが、この振動でまた崩れるかもしれないというようなこともありましたが、5月の末に三村晴山が帰藩したときの話に、ボンベンで大岩を打ち砕いたと、江戸で取りざたされたことがあったとのことでした。)
   
◯勘定役春日儀左衛門、道橋方元締久保孫左衛門は、以前から久保寺村に川の普請のために出向いていましたが、3月24日に小市の塚田源吾に招待されて、宵から酒を飲みひどく酔って、亥の刻(午後10時)ころに辞して5、6丁も来たと思う頃、2人同時に倒れました。不思議だ、そんなに酔ってはいないのに、と言って立っては転び立っては転びしているうちに、その辺りが地割れするのに仰天して、さては大地震かと驚き、芝生に座っていたそうです。その時源吾の家がみしみしと潰れ、源吾の子は亡くなりました。2人は強運の者でした。
 
◯小市村の周りは一面地割れが起こって、いつ崩壊するかわからない様子です。目付小野喜平太が村々を調査した時〈出水の後〉これを見て塚田源吾に、「この村を取り巻いてひどく地割れしているので、ここに居住するのは危険だ、どこか場所を選んで引っ越した方がよい」と言いました。源吾は、「今の家は出水の時危険なので、ここより山手の方へかなり行ったところに地所があるのでそこに家を造ろうと思います。おっしゃる通り地割れが多くできていて危険な土地ではありますが、住み慣れた土地は捨てがたいのです」と答えたそうです。まことにその通りでありましょう。
 
小屋
(略)
 
◯24日の夜、町家に潰れたり壊れたりした家がことに多く、火事が心配だったので、定火消しのほかに取次役・使役・城詰御供番の番士2組に言って藩内を廻らせました。(番士はこの夜だけ、そのほかは4月半ばまでこのようにしました。)25日に火消方から火消の増員の申し立てがありましたので、番士(役場方10人、並番士2人)からの増員を申し渡し、藩内を途切れる事なく廻らせました。(増員は4月半ばまでで終えました。)また城内を差立・家督に時間交代で巡回させました。(延享ころの風廻り役に似ています。)後には奏者も加えました。(晩の見回りも4月半ばには終わりました。)
   
◯磯田音門は27日に西山手を説明して廻った後、岩倉山の崩落箇所を調査しに行き、安庭村に泊まって百姓たちと一緒に小屋に寝ていましたが、10匁玉の鉄砲を撃つような音が時折聞こえました。鉄砲の音かと聞くと、おとといの夜崩落があってから、あんなふうに夜になると聞こえると答えたそうです。岩倉の崩落箇所から陽気が発生したものでしょう。また村の子供たちが、「今お奉行殿の頭の上に火の玉が落ちた」と叫ぶのを音門が聞いて、「これは火の玉ではない。このような大地震の揺れの時には、陽気と言って地中から火の玉のようなものが出ることがある。少しも怖いものではないから驚かなくてもよい」と諭したそうです。またその小屋では百万遍念仏をはじめ、夜更けまで鉦を打ち叩くので、うるさくて眠れなかったと語りました。翌28日には犀口に出たとのことです。
 
◯幕府の方から信濃・越後の被災地調査として、御普請役佐藤睦三郎という者が来て、4月11日に坂本宿に到着、12日田の口へ出向き、13日に岩倉の崩落箇所の検分をして、このせき止めの様子では湛水はなかなか抜けないだろう、そのうち決壊するにしても5日や10日のうちに決壊するとは思えないと、小市普請所で申して、のんびり酒を飲んで出発したとのことです。
   
◯岩倉の湛水はこのころから、せき止めている10丁の間を通って細い滝になって落ちていると、次々と報告がありましたが、いかにも細い流れで、2番目の湛水箇所(藤倉のこと)に簡単には溢れないだろうと申しておりましたが、だんだん水がしみ込んで、すぐにも決壊するだろう、しかし以前から予想していたように滝になるだろうという者もあり、いやいや、一気に決壊するだろうという者もありましたが、どのみち決壊まで長くはないだろう、だったらこの滝の様子を見て知らせる者を送ろうと、貫実子と話し合って送る者を選びました。原田糺は50を越えているがしっかり者なので、これに西沢甚七郎(2人、徒目付)を付き添わせればいいだろうと糺を呼び出して、「小市に行って、岩倉のせき止め箇所が崩れて水が溢れ、普請所の土堤を水が少しでも越えたら、脇目もふらずに走って来て知らせなさい。水が越えたら必ず土堤が切れて持たないだろう。長居すれば危険だから、甚七郎と話し合って油断しないように」と言い含め、私が持っていた人参一包みを与えて、「水が溢れるのを見たら、これを口に含み一気に走って来なさい。抜かるなよ」と繰り返し言い含めて送ったのは12日亥の刻(午後10時)ころでした。それから糺は直ちに出かけ、西寺尾に行って甚七郎を伴って出発しました。
 
◯上野村明松寺もかねてご巡見の時のご本陣のならわしでしたが、(付箋)(明松寺はご本陣のならわしはございません。)ひと揺れで地面が割れ、庫裡も本堂も潰れながら割れ目に挟まって落ちると、そのまま割れ目が塞がったといいます。不思議と押し潰される者もなく、すぐに大勢集まって掘り出しましたが、怪我人もなかったとのことです。寺はそのまま土中にあって、中から物を運び出すのに提灯を持って出入りしていると聞きました。またある寺(寺の名はわすれました)は、ここでもご休憩のはずでしたが、この寺に檀家の者が寄り集まっていろいろな用をして後酒を飲んでいましたが、近くの村から来ていた者たちが、私たちは道が遠いので帰りますといって、帰る途中に土砂崩れがあって、その下敷きになって2、3人のものが一緒に亡くなりました。残った者はまだ酒を飲んでいましたが、ひと揺れで押し潰されて4、5人圧死したそうです。また茂菅村の静松寺では、台所の隅に厩があって、その側に徳風呂(五右衛門風呂のことです)を据え置き、中間(ちゅうげん)の老人が入浴していましたが、この場所だけ崩れて、遥か谷底に落ちました。しかし風呂の湯もこぼれず、老人が入ったままで抜け落ちたそうです。馬は驚いて谷を渡り寺に戻ったとのことです。残った庫裡は潰れかかり、本堂は大破しただけですが、裏手の山がたいへんひどく崩れて本堂にのしかかり、片付けるのも容易でなく、大いに難儀したといいます。また上松村の昌禅寺はたいへん有名な大伽藍でしたが、ひと揺れで潰れて住持も下敷きになりました。人が集まって屋根に穴をあけ救い出しました。しばらくは息がありましたが、すぐに亡くなったそうです。(その折住持の後継の願いが出されました。)
   
飯山領吉村(吉田村より1里ほど北)は4、50軒の村ですが、地震が起きた時、村中の者はみな山手に出て避難しましたが、そのうち、おさまったと言って皆家に戻った時に、裏手の山がずるずると崩れ、村全体が埋まりました。近くの村の者が集まって掘り出そうとしましたが、たいへん深く土に埋まって簡単には掘り出せず、数日かかって4月10日までに20軒ほど掘り出したそうです。土は浅いところで2、3丈、深いところは5~7丈も10丈も覆っていて、人力ではとても掘り出すことはできないと聞きました。そんな中で、名主の家を掘り当てたところ、不思議なことに名主は平然として土中にいたとのことです(小野喜平太が村を廻った時このことを聞いて語りました。16日の間食料もなしにいたのは不審だと思いましたが、後で聞けば味噌をなめていたとのことです)
 
善光寺では、夜な夜な燐火がたくさん出現し、また「助けてくれ、助けてくれ」と呼び叫ぶ声が聞こえるそうです。雨の夜にはいっそう多いとのことです。数千人も圧死したのだから、そのようなこともあるのでしょう。また飯山では夜な夜な狼が山から下って来て死人を掘って喰うので、鉄砲を何回も撃って脅しているということです。
 
◯近習役金児忠兵衛は、密かに願い出て3月27日に飯山の親族のもとに行って、小屋の中にしばらくいましたが、そのころも余震が止むことなく揺れ通して、たいそう不気味であったそうです。またご城下はたいそう揺れ込んで、町は全体に六尺ばかりも持ち上がったそうです(町が6尺持ち上がったことは、出水のときの水量を量る杭を見て分かったといいます。)町は潰れた上残らず焼けました。お届けをご覧下さい。また家中も町も2日ばかり玄米の粥を食べていました。用水はみな干上がり、或いは泥水になって、使うことができなくなり、たいへん苦労したといいます。
 
◯被害にあった村々はみな用水が干上がり、近くは10丁、20丁、遠いとことでは30丁も1里も先まで水を求めるものがあったと聞きました。
   
◯藩内で出火がなかったのは、ひとえに殿の徳によるものです。鍛冶町の渋谷権左衛門(谷屋という)方は商人が多く泊まるところなので、その夜もおおぜい泊まっていたそうです。遅く来て泊まるものがあるので、下女が七輪に十分に火をおこしたときに家が潰れました。皆逃げ出しましたが、外で1人の旅人が、「七輪の火がたいへんよくおこっていたと思う、消さないと今に火事になるだろう、火事になればこのような時には忽ち大火になって防ぐことができない、この潰れかかった脇の方からくぐって入り、私が火を消して来ましょう」と言います。皆が「どうやってこの中に入るのだ、無駄なことをしてせっかく拾った命をお捨てなさるな」と止めましたが、その者は聞き入れず、「自分の命など惜しくない、皆を救うためだ」とそのままくぐって入り、また外に出て水を1桶提げて再び入って行って七輪に掛け消し止めたそうです。このことを誰かが言っていましたので、殿にお伝えしましたところ、「それは奇特な者だ、褒美を与えなさい」とおっしゃるので、金児大助に言って調べさせましたが、その者は商人ではなく虚無僧で、25日の朝出立して、どこへ行ったのか、またどこの者か分からないと答えたと申します。立派な気性の者でした。
 
○13日の未の刻(午後2時)を過ぎるころ、私は休息のために帰宅しましたが、西の方で鳴動がたいへん激しく聞こえました。さては例のせき止めが決壊したか、西の町に行ってみて来いと、若い者を走らせました。すぐに戻って来て、馬喰町まで参りましたが、何とも分かりませんが、水が出たと見えて、西の方でたいそう鳴動して、人々が東西に奔走し、今郡方様も城山に登られました、と申します。さては決壊に違いないと、前から予想していたことではありますが、今更ながら驚いて、あわただしく駆けつけるのも大げさなので、静かに歩いて行きますと、お城に着く頃には鳴動はさらに激しく、石州子も貫実子も皆土手に出ていました。私も直ちに行ってみましたが、もう瀬鳴りの音が高く聞こえ、氷鉋村の辺りまで水が押し寄せ、その勢いは言いようもありません。以前崩れた土手は過日普請が完成していましたが、なお水嵩が増してきたらどうだろうかと、3人で駆け回って指揮をしました。竹村金吾は犀口からこの日の暮れに帰って来て、「御普請役が今日検分して、しばらくは決壊するまいというので少し安心し、七ツ時(午後4時)にこの犀口を出て帰りました。途中鳴動の音も聞こえませんでしたが、船で渡った後、初めて出水したと聞き、驚き入りました」と申しました。そのうち日も暮れ、水も次第に増して来て、酉半時(午後5時)ころには下流の方から外のお堀に水がだんだんと上がって来て、次第次第に逆流し、亥の刻(午後10時)ころになって水嵩は外のお堀でいつもより6尺6、7寸も高くなり土手に届きました。町人足などだんだんに集まって、土手の低いところへは緊急用の土俵を積み上げて防ぎ、諸役人も手を貸して働きました。西寺尾からは例のごとくご避難の船を漕いできました。九ツ時(12時)ころから水は少し引き気味になり、だんだん減って行きました。これは柴松原の先で何年か前に決壊したところがまた切れて、金井池から山手を廻り、大室へ突き掛かって押し出したために、忽ち水が引いたものです。夜明けになってずいぶん水は減り、心配もなくなったので、少しの間交代で引き取って休息しました。
   
◯岩倉のせき止め箇所はまだ1丈ほども増水しないので決壊はしないだろうと皆思っていましたが、大波が一度打ちかかったかと思ううちに、たちまち10丁のせき止めを一時に押しのけ、高波がぶつかって2番目の甚水もいっぺんに押し切り、小市に流れ出た時には、水の高さ6丈6尺ほどもあったといいます。例の真神の崩れた土砂を押しのけ、小市の町の片側を崩してまっすぐに流れ出し、南の方は今回普請した土手でしばらくは支えていましたが、これもたちまち押し流して、川中島平一面に激流となり四ツ屋村を4軒のこして押し流しました。上堰から千曲川へ多量に流れ込み、上中下の堰、小山堰も皆押し流して、一面の河原にしてしまいました。川中島、川北、川東で夥しい数の家が流されました。お届けをご覧下さい。
 
◯第一番の報告は西沢甚七郎のものでした。続いて原田糺が戻って来て、「犀口で人足を指揮して、甚七郎とともに私も立ち働いていました。水が出た時は、これは大変だと見ていましたが、最初水はいかにもゆっくりで、防げないことはあるまいと、小高い所に引き上げて、まだあれこれ指図をしているうちに、小松原の者が、山から松を多く伐り出し、御普請所の上手に繋いで流し掛けておけば、しっかりした防御になるでしょうというので、そうかもしれないと申して、その者たち2、3人を連れて山に入り、松1本伐ったばかりのところで、早くも御普請所に水が溢れて来ましたが、大したこともなかろうと、そのまま防御の算段をしておりましたところ、次第に水が増して、霧のように水煙が立って溢れ出して来ましたので、では引き上げろと言い終わりもしないうちに、甚七郎とともに馬で駆け出しました。以前から水が溢れたら山手に沿って走って逃げ、矢代の船に乗って帰りなさい、遅くてもいいからと、お指図がありましたので、山手に沿って走って逃げましたが、水が押し寄せるまでには少し時間もあろうと思うままに、赤坂の渡しを渡って早くご報告をしようと、山手からまた一散に小森の方へ駆け出しました。道々水のことを村人に尋ねられ、答えながらひた走りに走ちましたが、年の若い甚七郎には敵わず、(赤坂の渡しでは)ひと船遅れて7、80人乗り組み、川の中に漕ぎ出した頃、ほっと息を継ぎました。しかしもう波が高く寄せて千曲川に流れ来む勢いはいかにも激しく、水主は一生懸命に縄を手繰り、ようやくこちらの岸に着く頃には、もう一面黒い濁り水になって、この船より後は通ることができません。危ないところを渡って参りました」と申しました。この後も次々と報告がありました。
前にも言った通り、糺はいかにも気性のしっかりした者です。地震の時土蔵に寝ていましたが、ひと揺れで押し潰されてはりの下敷きになり、しかも裸で寝ていたとのことです。打ち所がよかったのか、どうにかして梁をくぐって、中から土蔵を破って這い出しました。しかし背中は一面黒くなり、ひどい傷を負いました。しかし、それをものともせず働いたそうです。過日立ケ花の調査に来て、帰った後、「今回の御用は骨折りと言うほどのことでもない、この上またさらに被害のひどい場所の調査など仰せつかったなら、どのようにも骨を折って勤めましょう」と申すので、今回の洪水の報告にも選ばれてやって来ました。今後また貫実子の仕事で鹿谷の堰留掘割の調査として岩下革を使いに出した時、糺を付き添いとして申し付けられました。鹿谷の堰留は、まったく深山幽谷で、一歩ずつ進むような場所ですが、この辺はとりわけ崩落が多く、山また山を巡ってようやく行き着けるところもあるそうです。その中でも高山が左右に崩落して、峰が屋根の棟のようになっているところがあって、そこを通らなければ行けないため、どうしようかと2人ためらいましたが、外に道がないならしかたない、ここを行こうと相談しました。糺は、まずこの辺りの様子を書き付けようと言って、するどく欠け落ちた崖に馬乗りになって、平然と書き付けをしたといいます。革も普段は気の強い者ですが、糺の平然とした様子には及ばないと、感心して話して聞かせました。2人ともこの難所を首尾よく通ってその堰留場を十分に調べて戻って来ました。(後には道もできたのか、だんだんと行く者もあって、掘り割りも少しできました。高野車之助も行きました)その後もあちことの難所に調査のために行きました。
   
○14日と18日の御届けは次の通りです。
私の在所信州松代は、先達て先に御届けした通り大地震で、更級郡山平林の岩倉山が崩落して犀川を埋め立て、2箇所をせき止め、しだいに数10丈も水が溜まっていたところ、一両日前から水が漏れ出しました。下流のせき止め箇所に水が溢れるまではまだ2丈余りもあったのですが、にわかに決壊したと見え、昨13日夕方七7過ぎにこの山の方でひどく鳴動が起こって、引き続き瀬鳴りの音が大きく聞こえて来ると、一時に激流がこの川筋に流出して、たちまち左右の土手を押し破りあるいは乗り越えて、防ぐこともできない旨、川方役人達から次々と報告がありましたが、時を置かず川中島数10ヶ村一円に水が押し寄せ、千曲川に流れ込んで逆流し、すでに居城の際まで大量の水が溢れて来ました。暮れから夜九ツ時(午前0時)ころまでに、千曲川は普段より2丈ばかり増水し、川中島はもちろん高井郡・水内郡のうち川沿いの村々が水没しました。新しい流れができたように見えるところも数か所あり、作物が泥をかぶったのはもちろん、掘り返されてしまったところもおびただしくあると思われますが、詳しく知ることはできません。夜半過ぎになってようやく水嵩も安定してきた様子でしたが、明け方になって次第に水は引いて来ました。かねてから村方の者には防災の準備を申し付けてありましたが、急に溢れ出し、未曽有の早さの出水で、想定外のことで、家の流失はもちろん、溺死者も多くありました。その上多くの損地も出ることを思いますと、心が痛みます。詳しくは追って取り調べて申し上げますが、まずこの段ご報告申し上げます。以上
  3月14日
   
私の在所信州松代は、このほど先にお届け申し上げた通り大地震で、更級郡山平林の岩倉山が崩れ、犀川を埋め立てた箇所が、去る13日夕方一時に決壊し、大川筋に流れ出し、里方への出口から左右の土手を破って乗り越え、そこから川中島一円に水が溢れ、城下より1里ほど上手の同郡横田村辺りから千曲川下流に続く土地に一面に流れ出しました。水の勢いは甚だ強く、下流から次第に溜まって来た水が混じって逆流し、居城の際まで押し寄せました。城内の敷地より水が高くなったところは、去る文政年間にお知らせして築きました防水の土手で凌ぎました。もっとも所々ひどく破損しましたので、様々に対処するよう申し付け、急場を凌ぎました。水嵩が減りましたので、危ういところで城内には水が入りませんでしたが、城下町へはだいぶ水が押し寄せました。このような次第で、下流域の村々から御領所の中野平辺りまで、水が溢れ湖のように見えるところも、しだいに水が引いていきますので、早速調査に役人を派遣しましたが、大小の橋が多く流失し、その上水が引いても窪地には水が溜まっており、また道や堀などで通行が難しい場所もあり、おおよその調査もできかねます。犀川の湛水が決壊した箇所はだんだんと水嵩が増して深さ20丈にも及び、少しずつ水が溢れるに従い岩倉山の麓の方が次第に破れて流れができていきました。大量の水が溢れ始めたら、せき止めている岩石などを一時に押し崩し、麓の方へも大量に流れ込んで、数10日の湛水が川中島に流れ出すことになったわけです。これを防ぐために、この度水内郡小市村渡船場下流の左右の土手に石俵を急場の防災のために積みました。これは川中島その他流域の御料私領の村々のためということで、領内の人夫はもちろん、近領の水害を受けそうな村々からも多くの者を差し出し、懸命に普請いたしましたが、強大な水勢のためしばらくの間も保たず残らず押し流されてしまいました。そのうえ水内郡小市村の真神山がさきごろ崩落し、高さ20間、横50間ほどのところが犀川へ80間ほど流れ込み、残る川幅はわずかになって、このままにしておくと少しの水でも川筋が変化するため、懸命に掘り出すよう申し付けておりましたが、岩石などが多く手が付けられずにいるところに、この度の激流にたちまち押し流され、百数十人でも動かせなかったほどの大石を川下や流域の村の耕地に押し流しました。そのあたりの水は深さ六丈余りにもなったため、流域の村々のうち更級郡四ツ屋村では80軒余りのうち6、7軒を残してことごとく流失し、一面の河原になりました。この村と同様、住居が残らず押し流された村も多く、そのうえ山中筋で水際の山は多く崩落して、大木などが流れ出て、このために壊され押し流された家も少なくなく、流失した家600軒余り、そのほか土砂や泥水が流れ込んだ家も多くあり、流されて亡くなった人もあったと聞きますが、未だ分かりません。また川下の村々では窪地にある耕地にいまだ1丈ほども水が溜まっている次第で、損地に関してはまだおよそのところの調査もできません。北国街道沿いの丹波島宿から千曲川犀川の合流する辺りは一面荒れた瀬になっています。丹波島宿ならびに北国街道川田宿・福島宿の三宿は前条の通りで、人馬の継立ができません。また流域の村々の米穀については山手の村々へ移すようかねて申し付けておきましたが、そのほか近辺の村々は水が来ても流失まではすまいと思い、棚などこしらえてその上に穀物を置いていた家が流されてしまたものも少なくありません。そのため村々の救援のためにあちこちに役人を送り、食料の炊き出しや小屋掛けの算段などもっぱらに申し付けました。殊に川中島の村々で犀川から引いていた用水堰3筋、ほかに水門1か所も跡形もなく土砂に埋もれてしまったため、飲み水がまったくなく、救援の炊き出しも所によっては2、30丁の遠方から水を運んでいるような次第でございます。結局前条の堤防の普請もこのようなことがないようにと急難に備えたもので、地震で家が潰れてしまった者たちまでも命令も待たずに日々精を出して築いたものでございます。そのかいもなく一時に崩壊したため、家を失い水に浸かった者たちはなおさらのこと、ただただ途方に暮れております。日々の飲み水はもちろん、目の前に迫った苗代に水を引くための堰の普請も、すぐには行き届かず、このままでは差支えが出て、人々の心も穏やかでなく甚だ不安に思っております。いろいろ算段を申し付けておりますが、城内や家中、屋敷の破損ならびに城下町、領分の村々では倒壊した家、亡くなった人などおびただしく、田畑や道路は地割れし、地面は断層になり、また土砂崩れなど大災害の上に、このたびの大水害です。しかも今もって昼夜鳴動と余震が止みません。何とも気遣わしいことで、心痛にたえません。詳しくは追って取り調べてご報告申し上げますが、なおまたこの段先にお届け申し上げます。以上
  4月18日
   
○中之条代官(川上金吾之助、信州御取締)よりの御届左の通り。
信濃国大地震の様子をまずお届けいたします
今月24日は昼夜快晴で暖かく、穏やかな日でございましたが、その夜四つ時(10時)ころ大地震で、信州中之条村の私の陣屋の練り塀が所々揺れて倒れ、そのほか陣屋元の近辺の村々では農家の粗末な家の下屋周りが揺れて倒れ、激しく振動いたしました。しばらくしてようやく揺れは止まりましたが、それぞれ少しずつ間をおいて絶えず余震があり、陣屋から北の方では雷鳴のような響きが聞こえました。夜明けまでにおよそ80回余りの余震がありました、翌朝には少し静まりましたが、今もって余震は止まず、支配所の水内郡の村々のうちには倒壊した家や怪我人もあるということですが、いまだ訴え出る者はございません。次々とうわさに聞く所によれば、同国川中島辺りから善光寺、それより南の山中という村の辺りはひどい地震であったと見え、川中島辺りでは民家が村中残らず、あるいは半数以上が倒壊したり、そのうえ火事で残らず焼失した村もあり、1つの村で3、40人くらいから2、300人ほども即死者や怪我人がありました。善光寺町では家並みが殆ど残らず倒壊し、その上焼失して、多くの即死、怪我人が出ました。すべて街道沿いはこの節の善光寺供養御開帳)で多くの旅人が泊まり合わせていて、そのため死者も多くありました。山中辺りは遠く辺鄙なところで様子がよく分かりませんが、犀川の上手で山崩れがあり、川を押し止めて全く水が流れず、丹波島の舟場が干上がって歩いて渡っているそうでございます。越後方面の様子はどんなふうか、様子が分かりません。以上はうわさばかりのことで、いまだはっきりとは分かりませんので、早速手代を遣わし支配所の倒壊した家その他、よく調査し、ほかに最寄りの村々の被害の様子も風聞をよく確かめ、詳細を追って申し上げるつもりです。また御預陣屋に所属する同国佐久郡の村々については前記と同時に大地震にあいましたが、善光寺辺りからは距離が隔たるにつれ、だんだん弱くなっていったものか、陣屋ならびに支配所そのほか最寄りの私領、村々とも少しずつ被害はありますが、それほどのこともなく、怪我人や家屋の倒壊などはございません。先ずはとりあえずこの段お届け申し上げます、  以上
  未 3月25日             川上金吾之助
御勘定所
   
◯4月15日、公儀から越後・信濃の被災地調査役として御勘定(御目見)直井倉之助・松村忠四郎、御普請役(御目見以下)小林大次郎・佐藤友次郎、吟味方下役(同上)柴田隼太郎が中之条に着き、小松原村に出向いて数日逗留しました。竹村金吾その他の役人たちが何度か出向き、数々の贈り物をしました。(これは国役御普請をお願いするためです)
 
飯山侯(本多豊後守)のお届けは左の通りです(郡方に御側役より送る)
私の在所信州飯山では去る24日亥の刻ころから大地震で、先達てお届け申し上げておきました通りでございますが、その後も余震が止まず、昼夜通してたたびたび揺れているような状態です。遠方の村についてはいまだ様子が分かりませんが、城内ならびに家中、城下町の破損箇所は左の通りでございます。
(略)
右の通りでございます。なお領内については取り調べの上、追って申し上げるつもりでございますが、まずこの段お届け申し上げます。以上。
   4月13日             本多豊後守
   
◯中野代官(高木清左衛門、信州取締)よりの伺い
(略)
右は当月24日夜の大地震で、私の御代官所当分の御預所である信濃国高井郡・水内郡の村々の被害の様子をとりあえずお届け申し上げ、早速手付、手代たちを手配し差し向けて、私も村を廻り、村々の被害の様子を調査いたしましたところ、まったく言語を絶する異常な様子で恐ろしく、見るに忍びない状態です。地面は裂けて7、8寸から5、6尺余り数十間ずつ筋立って開き、その裂け目から多量の黒土や赤土の泥水が吹き出し、歩くことのできない場所が多くあります。そのうえ所々山が崩れ土砂や水が流れ出し、大水が出た田畑はことごとく様相が変わり、多くの損地が見られます。村々の用水路は所々欠け落ち崩れて大破し、或いは断層になっている場所もあり、水が流れず用水が絶え絶えになっている村々も多くあります。谷川などは大石や土砂が押し出して埋め立て、所々欠け落ちたり大破して水流をせき止めて、それが平地一面に溢れ出て泥水が流れ下っています。また家屋の倒壊ですが、いずれも家並みが平に押し潰され、桁、梁、矧目(はぎめ)、臍木(ほぞぎ)などや、そのほか建具類も打ち砕かれ、家財道具なども悉く壊れ、それぞれに貯えてあった(雑穀の類は俵が埋まったり散乱したりして、噴き出した泥水を)かぶり、中には土の中に埋まってしまったものもありました。最初見回ったときは村々の百姓たちはもちろん、村役人たちまでも放心状態で、全くいろいろ取り片付けようという気持ちもなく、それぞれの潰れた家の前で、家族一同雨をしのぐこともせず、ただ途方に暮れて茫然としていました。私を見て狼狽し、涙を抑えることもできず、身悶えして、尋ねたことにも答えることもできず伏しておりました。百姓たちは老若男女とも泣き叫んでいて、怪我人が多く倒れて苦しんでいる様子は言い尽くすこともできません。嘆く様子は不憫至極です。どの村々でも同様の次第で、さしあたり食料の貯えがあるものも、倒れた家の中にあり、ことに泥水を冠っていて容易には取り出すことができず、百姓たちは一人残らず食料を工面することがでません。また飲み水は用水の水を飲んでいたのですが、泥水が混じって飲み水がなくなり、普段助け合っている周辺の村などにもありません。当初救援の役人は、食料の調達にできるだけのことをしましたが、百以上の村のことなので、全体の救援までは私の力では届きかね、身分の高い者たちまでも、家が潰れるなどの災難に遭っており、寄付などによる助け合いもできず、しかたなく郷蔵に蓄えた穀物などで、手代たちが手配に村を廻り何とか凌いでいます。陣屋の最寄りの村々については中野村・松川村の寺院や神社の境内に小屋掛けして、最もひどく困っている者たちを救援している状態でございます。また村々の人、牛馬の死亡は書面の通りで570~80人、怪我人1460人、このうち障害が残り農業を続けられなくなった者も多くあります。死んだ牛馬150匹、この外善光寺に参詣して3月24日同所に宿泊し、地震で焼死したものは男女200人余りあります。このような状態では人がいなくなり、被災した村々では人口が2分7厘の減になり、支配所の石高58300石余りのところ、無事だった村々は3分の1しかありません。石高の7割余りは被災した村々で、なんとも嘆かわしいことでございます。さしあたり村々の用水路を修理しなければ飲み水が手に入らず、また田畑の用水が必要な時節なので、いずれも修理せずに放置すれば苗代はもちろん、無事だった田に植え付けるにも差し支えるところですが、大規模に破損しておりなかなかそれぞれの村で自力では修理できません。火事などの災害とは訳が違い、家、田畑、山林などまで損壊する大災害で、ことに水内・高井の両郡の地震はたいへん激しく、放っておけば廃村となる村々も多く、人命にも拘わり、将来にわたって税収や国益を失い、容易ならざることです。ともかくお救いいただかなければ、どうにもしようがないことでございます。またこの大地震で北国街道丹波島村の渡船場よりおよそ2里半ほど川上の、真田信濃守の領分である平林村の虚空蔵山のおよ20丁ほどのところが山崩れを起こし、犀川へなだれ込んで川を埋め立てたため、流水がせき止められて水が溜まりました。現在は川上の村々の平地に水がたまっておりますが、満水になれば自然と埋め立てられた部分が水の力で押し崩されると思われますが、その時はどれほどの洪水になることかと心配して、支配所の千曲川沿いの村々が申し出ましたので、信濃守家からも相談がございました。そのため現在は千曲川は平常の水位より7、8尺減水しており、川沿いの村々は心配して山沿いの高台に避難しております。湛水が決壊したらどのようになるものか、数日溜まった水が一気に流出したら、またどのような水害が起こることかと、ことのほか人々は不安に思い心配しているところでございます。前に書きました、災害で難渋している次第をとくとご賢察いただき、存続できますよう、また自普請をする用水は大破しておりますので、金2500両を書面の村々に拝借を仰せ付けくださいますよう。さもなければ、とても存続はできませんし、万一これ以上難渋して、また心得違いの人心が起こってくるようなことになったら恐れ多く、深く心配しております。支配所の村々の人々については、昨年来この国の他の支配所にないほど御国恩をわきまえ、定められた上納米以上に上納しようとする誠実な人々です。むなしく余所に出て行くようなことになれば、たいへん嘆かわしく思います。どうか思いやり深いお取り計らいを以て、永年賦の拝借をいただけますよう。拝借いたしました上は、右の拝借金高を村々に応じて割賦で貸し渡し、年賦返納については別状を以てお伺いするよういたします。早速お伺いの通り、拝借を仰せ付けられ、御下金くださいますようお願いいたします。これにより被災した村々一村につき帳一冊を添えてこの段お伺いいたします。以上。
  弘化4未年4月            高木清左衛門
この伺書は写し誤りがあるようです。
   
◯松本侯の御知らせは左の通りです。
(略)
 
◯24日から川中島、川北、川東では救援として5日間炊き出しを仰せ付けられました。場所は、川中島は小松原と八幡原、川北は北高田と下高田、川東は東川田村です。代官の担当で、手代2人ずつが行って指揮をしました。この救援は莫大なもので、家を流され、あるいは家はあっても深く泥に埋もれて、貯蔵していた米穀もあるいは水に流し、あるいは水に浸かってしまった者たちが、老若男女の区別なく皆集まって頂戴し、有難がることは、例えようもなかったといいます。
 
◯私の知行の若宮村は、前に書いたように善光寺で圧死した者が12人あったのみで、大きな被害はありませんでした。東川田村は泥の流入が多く、地所も流れたと聞きましたので、蔵元を呼び出して尋ねたところ、御領のうちは格別の事はないと答えました。藤牧村も水が流れ込んで損地があると聞いて尋ねてみると、これもそれほどのことはないと言います。安庭村はわずかに20石ですが、圧死者もあり、多少手当をしました。
(略)
吐唄村は6石5斗5升の知行ですが、これでひとつの村です。ひどい損害で目も当てられない有様だといいます。
(略)
 
◯同心あるいは出入りの者で被害にあった者は皆尋ねて、素麺干物の類をそれぞれに送りました。いちいち記録するのは煩わしいので省きました。
 
◯出入りの者のうち善光寺の清吉は夫婦とも圧死して家筋が絶えました。このほか亡くなったものはありませんでした。