[注記]

(注1)発行日:ここでも巻末の奥付でも発行日は記されていないが、後掲『岐蘇林友』144号では「同年10月18日校友会報第一号を発刊す」(「学校要覧」)としている。
(注2)熊(まつだりきくま):木曾林学校初代校長。島根県出身。明治29年帝国大学農科大学林学科卒業。同県林業巡回教師などを経て、明治34年5月校長として同校に赴任。同40年、帝室林野管理局技師に転任、この間6年3カ月にわたり、我が国初の林業を専門とする実業学校の礎づくりに邁進した。(1871~1949)
(注3)森林学校:山林学校のこと。文中「森林学校は現今の規定によれば農業学校の中に含まれて居る」とある。これは明治32年の実業学校令のことを述べており、その第2条に「実業学校ノ種類ハ工業学校・農業学校(中略)トス。養学校・山林学校・獣医学校及ビ産学校等ハ農業学校ト看做(みな)ス」とある。
(注4)三舎(さんしゃ):「三舎を避く」で、おそれはばかって避ける意。
(注5)大小林区署官制:明治19年(1886)大小林区署官制が公布された。それまでの山林事務所を廃止し、大林区署に林務官・林務官補・書記を、小林区署に営林主事・営林主事補・森林監守を置く。全国に21大林区署、127小林区署、67派出所を設置した。(『日本の森と木と人の歴史』日本林業調査会)
 
(注6)愁眉(しゅうび):「愁眉を開く」で、今までの心配が解けて安心すること。
(注7)薪炭を得るに苦しみ:明治18年(1885)皇室財産の基礎を確立するために、優良な官有林が帝室一般財産に編入することが決められ、管理機関として御料局が宮内省につくられた。同22年には西筑摩郡にあった官林約35万町歩(実面積約10万町歩)が、御料林に編入された。そのため江戸時代「明山(あけやま)」といって、木曽五木以外の利用は許されていた林野まで入会が禁止された。その結果人々は薪炭材を得るのにも困難をきたした。
(注8)御料局(ごりょうきょく):明治18年(1885)発足、皇室の財産である御料林の管理運営を行った。同40年(1908)、帝室林野局となり、全国7カ所に支庁が設けられ、木曽町にも木曽支庁が置かれた。
(注9)江崎政忠氏:長野県出身で東京山林学校に学んだ。同校は近代林学・林業をドイツで学び日本に伝えた野はざま(石偏に間)が、明治15年(1882)12月に東京西ヶ原に創設した学校である。しかし同校は開校4年で駒場農学校と統合されて東京農林学校となったので、卒業生(13名)を1回出しただけである。江崎はその数少ない卒業生の1人である。(安藤圓秀編『駒場農学校等史料』東京大学出版会)
(注10)保続(ほぞく):ドイツ語のNachhaltigkeitの訳。木材の永続的な収穫の意。
 
(注11)高等学校へも~人位ひになる:高等学校入学者が毎年300人ばかりで、卒業はわずかに1500から1600人くらいになるとあるが、人数のつじつまが合わない。原本に記載された数字に誤まりがあるか。
(注12)通常会員:校友会では全在学生徒を「通常会員」として組織した。後掲「木曾林学校々友会々則」第7条参照。
(注13)三澤義治(みさわよしはる):第1回生。明治37年(1904)3月卒業。長野県南安曇郡の出身。校友會報第1号の編集に携わった編集委員の1人。卒業後、長野大林区署に勤務。
(注14)漉(みずこし):桶などの底に砂利・砂・木炭を詰め、布などを張ってをこし澄ます器。
(注15)ネズコ:木曽五木の中の1種で、この資料の中にもしばしば現れるが、漢字表記はむずかしい。「木」偏に、「獵」(りょう)という字の傍(つくり)を組み合わせた字が多く使われているが、JISコード表にはない。「鼠子」というあて字が使われることがある。ネズコという和名は木曽地方でよく使われるが、クロベという和名が一般的である。
 
(注16)坪倉藤三郎(つぼくらとうざぶろう):第1回生。明治37年(1904)3月卒業。鳥取県出身。校友会発足時は副会長、翌年の校友会再興のとき編集委員となり、この第1号の発刊に奔走した。入学時、最年長で校長よりも1歳年上で、同級生からも一目置かれた存在であった。
(注17)尺〆(しゃくじめ):木材の材積(体積のこと)をあらわす日本在来の単位で、1尺〆=12立方尺=約0.3立方メートル。ここに書かれている1億6,000万尺〆は、約5,360万?となる。
(注18)西尾忠治(にしおちゅうじ):第2回生。明治38年(1905)3月卒業。岐阜県恵那の出身。校友会幹事を務める。卒業後は帝室林野局名古屋支庁に勤務。
(注19)森林法:我が国で初めての近代的な森林法が明治30年(1897)4月公布された。この法律で森林とは御料林・国有林・部分林という定義。営林の監督、保安林及び森林警察に関する規定を主とするものであった。(『日本の森と木と人の歴史』(日本林業調査会。1998年)
(注20)中村茂(なかむらしげる):第1回生。明治37年(1904)3月卒業。木曽の開田村出身。卒業後、校友會報には毎号のように通信をよこしていたが、招集され騎兵隊に配属されて日露戦争に従軍。若くして中国で戦死。
 
(注21)品川弥二郎:山口県出身。1843年生れ、幕末期の萩藩士、明治期の藩閥政治家。ドイツ・イギリスに留学。本文の時点(明治13年)では宮内省御料局長心得であるが後局長。明治15年に大日本山林会が創立されると初代会頭(総裁)に伏見宮貞愛親王、初代幹事長に品川弥二郎 が就任した。第一次方内閣の内務大臣。1900年没。
(注22)選伐(せんばつ):更新または利用の目的で、立木を選択して切ること。
(注23)そよご:モチノキ科の常緑低木。高さ約3メートル。葉は厚く、沢がある。、白の小花が開き、紅・球形の核果を結ぶ。材は器具に、葉は染に使われ、樹皮からは鳥もちを採る。
(注24)小川木山祭:このときのことを『上町誌』(第三巻・歴史編)に、明治35年6月3日に灰沢御料地で「晴本日御杣山木本祭執行」とあり、神宮造営材のご神木を伐採し搬出が行われ、「木曾林学校の職員、生徒」も関係者や地元の人々と共に参列・見学したとある。
(注25)三方より穴を穿って:いわゆる三つ紐伐りという、斧を使った伝統的な伐採方法。
 
(注26)西筑摩郡:この当時は、現在の木曽郡の他に本市奈川、塩尻市楢川、岐阜県中津川市山口・田立・神坂を含む地域であった。
(注27)林業巡回教師:西筑摩郡で最初の林業巡回教師として赴任したのが手塚長十である。当時同郡では実業学校設立が議論されていた時で、そんな中彼は郡有識者に全国初の林業を専門とする山林学校の設立を提唱し、踏み切らせた。開校前は設立準備に奔走し、設立後は同校教諭として田校長を助け、木曾林学校の礎を作った。安曇野市豊科出身。1871~1907。
(注28)壌土(じょうど):約60パーセントの砂に粘土・シルトあるいは有機物の混合した土壌土壌中最も作物栽培に適する。
(注29)3尺平方:1尺は約0.303メートル。3尺平方は0.91×0.91メートル=約0.83平方メートル。
(注30)5寸:1寸は1尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
 
(注31)2合(ごう):1合は1升の10分の1。約0.18リットル。
(注32)5勺(しゃく):1勺は1升の100分の1、1合の10分の1。約0.018リットル。
(注33)鯡〆粕(にしんしめかす):ニシンの搾りかす。農作物の肥料として使われた。
(注34)埴土(しょくど):土壌の性質を示す語。粘土質を50パーセント以上含んだ土。粘着が強く、肥料の分解がおそく、そのままでは耕作に不適である。はにつち。ねばつち。
(注35)演習林:初代校長熊は赴任して直ぐに演習林の設置に動きだし、郡幹部に働きかけて1年足らずの間に演習林開設を実現した。そのモチベーションは、東京農林学校(後、帝国大学農科大学)時代に教えを受けた本多静六の清澄(千葉県)での造林実習にあったと推測される。(山口登「木曾林学校の草創期に本多静六の果たした功績」平成26年3月29日、第125回日本森林学会にて発表。詳細は木曾山林資料館ホームページ参照)
 
(注36)丹尺(たんじゃく):この後に「丹尺形」という語が出てくるので、ここは「短尺」の誤りか。短尺は短冊、即ち長方形をいう。
(注37)折衷苗代(せっちゅうなわしろ):苗代と陸苗代との利点を兼ね備えるよう工夫された苗代。灌排が自由にできる田に設けて、必要に応じて灌排を行いながら苗を育成するもの。
(注38)苗代(みずなわしろ):田に設けて湛状態に保った苗代。
(注39)分蘖(ぶんげつ):などの根に近い茎の関節から枝分かれすること。ぶんけつ。
(注40)大越瓜:しろうりのことか。「越瓜」は普通のきゅうりより大きく、白いものも青いものもある、多くみそ漬けにする。
 
(注41)午房:牛蒡(ごぼう)のことか。
(注42)菖苣:萵苣(わきょ)の誤りか。萵苣は蔬菜の名。ちさ。ちしゃ。葉を食用にする。
(注43)藷薯:藷(しょ)はサツマイモ、薯(しょ)はバレイショ・ヤマイモの意。ここではこうしたイモ類のこと。
(注44)甘蕪:この後の本文に「此外に蕪菜あり」とあるので、ここは甘蔗(カンショ・サトウキビ)の誤りか。あるいは甜菜の類いのことか。
(注45)日義村(ひよしむら):七笑は日義村地籍ではなく、新開村(しんかいむら:現・木曽町)が正しい。
 
(注46)雇(やとい):官庁などで、本官または本職の事務をたすけるために雇われる職員。
(注47)心得(こころえ):下級のものが仮に上級のものの職務をつかさどる時の名称。
(注48)甲種:明治32年の「農業学校規程」では、学校の種類を甲種と乙種に分け、甲種は入学資格を「14歳以上、高等小学校卒業以上」とし、乙種では「12歳以上、尋常小学校卒業以上」とした。木曾林学校では開校当初は、生徒募集の不安から「乙種」で出発したが、予想以上の応募者があり、開校後すぐに甲種への変更を申請し、34年7月には認可された。
(注49)如件(くだんのごとし):前文にあげた事柄のとおりであること。書状などの末尾に書く言葉。
(注50)履修(りしゅう):決められた学科・課程などを習い修めること。
 
(注51)拳々服膺(けんけんふくよう):謹んで心中に銘じ、忘れずに守ること。
(注52)教誨訓諭(きょうかいくんゆ):教誨は物事の道理をよく言い聞かせてわからせること。訓諭は教え諭(さと)すこと。
(注53)廉恥(れんち):心が清らかで、恥を知る心のあること。
(注54)鞅掌(おうしょう):(背ににない、手に捧げる意)いそがしく働いて暇のないこと。
(注55)1学年生:このときは開校初年度であるから、生徒は全員1年生である。