古文書
「坂東家文庫」の大名・青山家に関する史料や、戊辰戦争に関する紙本墨書『心苦雑記』など、保存して後世に伝えていく貴重な文書資料をデジタル化して紹介しています。
坂東家文庫を含む資料群(うち古文書)
宝暦の郡上一揆のあと当地を治めた大名青山家と、その家臣であった縣(あがた)家・坂東(ばんどう)家に関する資料群。一部は坂東家文庫として郡上市重要文化財に指定されている。未指定分を含めると、文書・絵図・写真・工芸品など、江戸時代前期から昭和前期にかけての約1,600点の資料からなる。
宝暦の郡上一揆のあと当地を治めた大名青山家と、その家臣であった縣(あがた)家・坂東(ばんどう)家に関する資料群。一部は坂東家文庫として郡上市重要文化財に指定されている。未指定分を含めると、文書・絵図・写真・工芸品など、江戸時代前期から昭和前期にかけての約1,600点の資料からなる。
徳川将軍領知宛行状ほか
徳川歴代将軍が青山氏に対して領地の支配を認める際に発給した領知宛行状であり、対になって発給される領知目録はその領地の明細を記したものである。他の大名家と同様多くは写だが、一通のみに朱印がある。
青山家関連書状・記録類
紙本墨書心苦雑記
戊辰戦争のさなか、郡上藩中枢が維新政府への恭順を示す中、佐幕派の郡上藩士の一部が「凌霜隊」を結成した。
『心苦雑記』には、同隊が慶応4年4月に江戸を出立、北関東を転戦し、会津若松城での籠城戦ののち9月に官軍に降伏、国元郡上で禁錮となるまでが記録される。
著者は、一隊員であった矢野原与七である。昭和初期まで秘蔵されていたが、今日では凌霜隊研究の最重要史料となっている。一兵士が、自身が目にした戊辰戦争を臨場感ある筆致で描写した、貴重な戦記文学の一つであるとされる。
喜多七五郎画・文『郷土史料』
喜多七五郎(きたひちごろう)が下津高悠(しもづたかひさ)の助力を得て描いた計六冊の画帖である。郡上藩時代の風景や記録を後世に残す目的で作成された。喜多七五郎は郡上在藩の藩士の家柄で慶応二年(1866)に生まれ八幡町桜町に住し、明治維新後は長年教職にあるかたわら画業にいそしんだ。
郡上藩主青山家秘蔵武器図(全三巻)
郡上藩主青山家は「武器の青山」とも言われる家系であったが、明治になり優れた武器も不用廃物となってしまった。それを憂えた旧家臣の乙部次義が、明治29年に同家に伝わる古式武器の図画を作成し、武名を後世に伝えることを願って積翠山の神庫に納めた。それを、代々郡上藩士で御武器掛を命ぜられた家筋の喜多七五郎が昭和12年に模写して家宝としたのが当資料である。
花のみよし野
郡騒実録(全五巻)
郡上宝暦騒動(郡上一揆)を記録したもので、巻頭の六百字に及ぶ漢文の序文に、「宝暦九天己卯仲夏 山田氏直信撰」とあり、騒動後間もない頃の著作と思われる。文体は美文調で、古典の引用も随所にみられる。宝暦騒動と同時代に書かれた文献記録はこのほか、小野村半十郎の著作と推定される『金森騒動記』(小野滝山南亭著)、下川筋の中野・下苅安庄屋某の口述筆記とされる『金森兵部少輔御治代騒動記』、江戸の講釈師馬場文耕が頒布し禁書処分をうけた『ひらがな森乃雫(しずく)』等がある。
美濃明細記
『美濃明細記』は写本として多く残されている。その冒頭の言によると、原書は元文3年(1738)に伊藤実臣が著した『百茎根』(ももくきね:和歌の枕詞)であり、それを田中平氏信次が改題した。『美濃明細記 美濃雑事記 一信社版』(一信社出版部、昭和7年)の緒言で、編纂者・平塚正雄は「本書は美濃の記録中で一番組織立つてゐるものであり、この種の書としては一番古いものであり、美濃としては最も信頼されてゐるもの(後略)」と評している。本写本は、明治2年に大垣で売買されたもの。