版籍奉還と廃藩置県
1869年、明治2年6月17日、維新政府は諸藩に「版籍奉還」をさせる。
これは、全国の各藩主が旧来所有していた領地と人民を朝廷(天皇)に返還させるという政治改革で、わが国の旧封建体制−いわゆる幕藩体制−を終結させ中央集権化を促すための変革であり、2年余にわたり熾烈を極めた戊辰戦争の終結抜きには考えられない。つまり、内戦(の性格)が旧徳川の体制維持をめざす「賊軍」を解体し、天皇親政による強力な中央集権化の達成を図る「維新政府」を樹立することにあったからである。
この版籍奉還も必ずしも問題なく行われたわけではない。これには木戸孝允、大久保利通らの画策があったといわれている。まず、討幕戦争の中心となった薩摩・長州・土佐・肥後の4藩主が率先して奉還し、他藩もこれに倣い奉還する。
しかし、強力な中央集権化を確立するためには、この版籍奉還が個別領有権の確認に基づく旧封建体制の単なる再編成に終わらせず、郡県制を樹立しなければならない。すなわち、「廃藩置県」である。この郡県論についても政府内部の民部・大蔵両省をめぐる紛争に端を発する急進派、漸進派の対立があり、一気に進めることができなかった。また、維新政府の権力基盤を支えたのは、何と言っても諸藩の軍事力・経済力であり、領主階級こそ維新政府の最大の基盤であった。すなわち、旧領主階級の経済的・身分的保証、政治的特権の復活をどうするのか、合わせて急速に解体された旧家臣団、とりわけ戊辰戦争で功績を上げた下級武士・実力者の処遇など様々な問題を抱えていたからでもある。
この廃藩置県が断行されたのは、版籍奉還から2年後の1871年、明治4年7月、これまで政府内でことごとく対立していた西郷隆盛と木戸孝允が、連立内閣を形成し「旧幕藩体制的な制度の残存形態を廃滅する」という目標の一致によるものである(以上、岩波講座 日本歴史15 近代2・藩体制の解体 原口清を参考とする)。
開拓使の設置
蝦夷地については版籍奉還・廃藩置県ともに、いわゆる内地とはいささか趣を異にしている。勿論、1604年(慶長9年)松前慶広が徳川家康より黒印の制書(藩主)を授けられて以降、蝦夷島全島の統治を行ってきたが、その統治権が実質的に及ぶのは渡島半島の一部であり、また、2度にわたる幕領時代を経ており、特に1854年以降の後期幕領時代については、統治権はそのまま維新政府(箱館裁判所・箱館府)へ引き継がれている。したがって蝦夷地の行政改革は他の藩・県(府)とは全く別な、言い換えるならば維新政府の新しい構想(開拓使・北海道の名称に象徴されるように)のもとに実施されたと考えられる。
1869年、明治2年6月、政府は、鍋島直正中納言(鍋島は佐賀藩主時代から蝦夷地には特別な関心を持ち、根室・釧路の物産を扱ったり、家臣島義勇を蝦夷地に派遣し調査をさせていた)を、開拓督務に任命、太政官(内閣)直属として蝦夷地開拓の機関設置の準備に当たらせ、明治2年7月8日『開拓使』を設置する。そして、13日には開拓使初代長官に鍋島を任命(8月、病気のため辞任、後任は東久世通禧)、24日、箱館府知事であった清水谷公考を次官に(9月13日辞任)、開拓判官に、島義勇・岩村通俊・松浦武四郎・岡本監輔・松本十郎・武田信順を任命(8月29日前箱館奉行杉浦誠を追加)。
この開拓使の最初の仕事が北海道の誕生であった。
北海道・国郡の制定
開拓使の最初の仕事は、蝦夷地を日本の国郡として正式に組み入れることにあった。
この新しい国郡の設定・命名について、開拓使は、松浦武四郎に諮問し7月17日にその意見書を受理している。
松浦武四郎は、意見書提出後、同年7月24日開拓判官に任命されているが、松浦は、1845年(弘化2年)の初航から1858年(安政5年)の6航まで前後6回の蝦夷地探検・調査、さらに千島・樺太までも足を延ばしており、その記録も蝦夷日誌など地図・地誌などに写生を混え詳細に著している。文字通り、当時、蝦夷地、千島・樺太についての見識は第一人者であり、その意見書『北海道々国郡名選定上書』には、それぞれの命名について、具体的な文献をあげその由来等を述べている。
『北海道』の呼称
1869年、明治2年8月15日、政府は『蝦夷地自今北海道ト被称、十一箇国ニ分割、 国名郡名等 別紙之通仰出候事』と布告(太政官公文録)する。この布告により、以後、蝦夷地は北海道と呼称されることになった。
北海道の名称は、北海「道」で、道は、都県府と同等の行政区画の名称である。この名称は、中国、唐時代の地方行政区画(十道、現在の省にあたる・朝鮮では8道、現在は17道)であり、わが国でもそれに倣い、律令制時代に畿内を中心として、京都から通じる道により全国を東海道・東山道・西海道のように大別した呼称であったが、江戸時代にはすでに東海道・山陽道などのように街道をさす言葉となっていた。
北海道の行政区画名称を、明治4年7月14日の「廃藩置県」によって各藩を「県」としたようにはせず、「道」とした理由は定かではないが、その区画が広範囲であること、また、旧藩のしがらみがなく、新天地であることなどから、中央集権政府が試行的に取り入れた地方行政区画ではないかと推察する。
なお、松前藩・19世修広(ながひろ)は、明治2年6月版籍を奉還、旧領土を館藩(現厚沢部町)として知事就任。明治4年7月の「廃藩置県」により旧領土の津軽・福島・檜山・爾志郡については「館県」となるが9月には弘前県に合併11月青森県に属し、修広は帰京する。
『十一箇国』 渡島国(7郡)、後志国(17郡)、石狩国(9郡)、天塩国(6郡)、北見国(8郡)、胆振国(8郡)、日高国(7郡)、十勝国(7郡)、釧路国(7郡)、根室国(5郡)、千島国(5郡*現在の北方領土4島) 以上、11か国(86郡)
『渡島国』 命名について、「西地クトウ(現大成町字久遠)境より東地、山越内(現八雲町字山越)境まで是迄シヤモチと唱来候分海岸74里12丁1局に仕度奉候 古来此辺りを指て渡島と称し来候 (中略) また是をヲシマと訓し候は、南部津軽之方俗此地を指てヲシマと通称し候、是に候はば早く方俗の弁別に相かない候と奉存候。」
『渡島国七郡』 亀田・茅部・上磯・福島・津軽・檜山・爾志の7郡で、郷土尻岸内村は茅部郡の所属となる。なお、山越郡は、胆振国の所轄区域とされ兵部省の直轄となる。
函館開拓使出張所の開設
北海道・国郡を制定した開拓使は業務を進めるために、病気辞任した鍋島長官の後任、東久世通禧(みちとみ)開拓使長官、明治2年9月3日、7名の判官ら農工民200名を含む、総勢600余名を引き連れ英船テールス号で品川港を出発、30日函館港へ赴任。
1869年、明治2年9月30日、東久世長官、函館・旧箱館奉行所に開拓使出張所を開設、次の事項について稟議する。①職員任命に関する、②土地付与に関する、③刑法に関する、④貨幣に関する、⑤松前転封に関する、⑥吏員俸給増加に関する、⑦船艦を備えること他数件について意見集約、⑧その他施設経営の主なもの、函館・手宮・寿都・幌泉の4港に海官所を設置、金銀貨幣の通用を改正、東本願寺門主の請を許し北海道新道開削と布教の許可、沖口番所を海官所に改称、米人(プロシア人)ガルトネルに貸与した七重村近傍の土地3百万坪を返還させ、62,500ドルを償うなどの件を伝達する。なお、ガルトネルへの土地貸与についての東久世長官の行政的決断は、結果的に植民地化を防ぐこととなり、貸与した榎本の失政とともに後年高く評価されている。
開拓使の予算
明治2年12月、政府は、函館開拓使出張所の開設にともない歳費として、金20万両、米1万石を5年間定額として配分、そのうち金2万両、米1400石を、根室、宗谷出張所にそれぞれ定額配分することとしたが、翌3年2月には北海道開拓使歳額として、金13万両、米9千石に減額されている。
役所名の改称・機構改正・行政区画変更
発足したばかりの開拓使は、この時期めまぐるしい程、機構・組織改正、行政区域変更あるいは役所名の改称が行われているので、年代を追いつつ記述していきたい。
・明治2年7月8日『開拓使本庁兵部省内に設置』
8月、太政官内に移行する。
・同年9月30日『開拓使出張所』函館に開庁し、東久世長官在任、その下に岩村判官が在勤し開拓使全体の政務を総括すると共に、渡島国の亀田・上磯・茅部の3郡と日高国の3石・幌泉の2郡を管轄する。
『開拓使出張所の内部機構』、庶務・金穀・農政・営繕・産物・刑法・沖ノ口・運上屋・病院の9掛とする。
・明治3年閏10月9日『函館の開拓使出張所を本庁』とする。
・在京の開拓使庁を廃止し、開拓使東京出張所とする。
・明治4年5月『札幌開拓使庁』を開設し本庁とし、東久世長官、岩村判官らは札幌在勤となる。
・函館は『函館出張開拓使庁』と改称(支庁)され、渡島国7郡と後志国8郡、胆振国1郡の計16郡を管轄とする。
・同年7月14日 政府は中央集権の強化をめざし「廃藩置県」を断行する。
・北海道一円は開拓使の管轄としたが、館藩(旧松前藩)の支配地、福島・松前・爾志・檜山の4郡は館県に所属する。
・同年9月 館県は弘前県と合併する。11月2日、(弘前)県庁を青森に移転し青森県と改称する。
・松前に青森県の「福山出張所、後に分署」を置く。
・同年『開拓使10年計画を策定』拓殖費1千万円を計上、財政基盤を持つ北海道最初の長期計画(明治5~14年)を策定する。
・明治5年9月14日『開拓使庁、本庁を札幌に置き「札幌本庁」』とし『函館・根室・浦河・宗谷・樺太に「5支庁」』を設置する。これは明治15年2月の開拓使廃止まで続く。
・これにより函館出張開拓使庁は「函館支庁」と改称し、最高責任者(主任官といわれる)に杉浦誠権判官が任命される。
なお、この杉浦は、最後の箱館奉行を務めた杉浦勝誠である。
<歴代の函館支庁最高責任者(主任官)>
杉浦 誠(権判官のちに中判官)
明治四年一二月~十年一月まで在任
柳田友郷(権少書記官のちに少書記官)
明治十年二月~十年十二月まで在任
時任為基(権大書記官のちに大書記官)
明治十年十二月~十五年二月開拓使廃止まで在任し、後初代函館県令となる。
・明治五年『函館支庁、出張所の設置』開拓使は地方行政が村々にまでいきわたるよう、管轄地の要所に出張所を設置する。
<函館支庁東渡島四郡の出張所・初代詰員名>
郡名・所在地 初代詰員名 設置年月日~分署昇格年月日~廃止年月日
上磯郡・当別村 西山 求春 五年 八月~九年五月二五日~一〇年四月五日
亀田郡・峠下村 鈴木 国輝 五年十一月~ ~八年三月一五日
茅部郡・戸井村 高橋 六蔵 五年 十月~九年五月二五日~十年四月五日
・砂原村 渡辺 政方 五年 二月~ ~八年三月七日
・森 村 長谷川常永 五年 七月~九年五月二五日~十年四月五日
山越郡・山越内村 山本 賢 五年 二月~九年五月二五日~十年四月五日
・長万部村 中田 貞矩 五年 八月~ ~八年三月一五日
郷土、尻岸内村は当時、茅部郡に所属し小安村・戸井村・椴法華村(明治6年1月20日、尾札部村より分村)と同じく、戸井出張所(9年5月25日分署に昇格)の管轄下にあった。
なお、右に記述したが、函館支庁の出張所は明治8年3月、分署は明治10年4月、病院出張所とともに全て廃止となる。以下、「開拓使日誌」明治10年第9号より
<分署並び病院出張所廃止ノ義伺> ・明治10年2月9日
当管内設置ノ分署現今別紙ノ通ニ有之、右ハ客歳中本庁協議ノ旨ニ基キ福山始メ八ケ所の出張所を分署ト改称…中略…久遠、山越、森、戸井、当別五分署ハ平常事務繁多ニ無之、官員ヲ在勤セシメ候共却テ浪費多クシテ実効少シ、之ヲ廃シテ実際差支エ無之ニ付、分署、病院出張所等相廃シ、更ニ別紙乙号ノ通改正仕度、此段相伺候也。
〔別紙乙号〕改正支庁直轄並分署分轄
支庁直轄 亀田郡 茅部郡 上磯郡 山越郡 以上四郡
福山分署 福島郡等二郡
江差分署 檜山郡等六郡 寿都分署 寿都郡等四郡
支庁の文書では「分署の平常業務は繁忙とはいえず、官員の在勤は浪費である。廃止しても差支えない」とあるが、明治9年には、森分署から砂原出張所廃止にともなう業務多忙を理由に「在勤増員」の願いが出されている。つまり、この伺いは地方の実情を無視した提案といえよう。結果として、開拓使本庁はこの原案を認め、福山(松前)・江差・寿都の3分署を残し、亀田・茅部・上磯・山越の4郡は支庁直轄となる。
明治10年代に入ると、行政組織も拡大し予算との折り合いがつかず、合理化・人員削減を余儀なくされたのではないかと推測する。
・明治5年9月『北海道全域が開拓使の管轄となる』
青森県の管轄であった旧館県(旧松前藩)の津軽・福島・檜山・爾志の4郡が開拓使に合併「函館支庁」の管轄となり福山分署を郡役所とする。
・明治6年5月『各支庁の機構改正』
事務機構を庶務・民事・会計・刑法の4課とし、函館・樺太の両支庁には別に外事課を設ける。なお、函館支庁の機構は管轄内の実態に即し、庶務・民事・会計・刑法・外事の5課に、海官所・病院・七重開墾場・貸付会所・新道建築掛の5掛が加わる。
この、函館支庁の機構改正、5課・5掛をみる限り、函館から札幌までの札幌本道開削という一大事業を推進する新道建築掛・将来の北海道の農業経営を構想し七重村での洋式農業取り入れた開墾場・国際貿易港での貿易業務を執り行なう海官所(税関)など、実態に即し掛を設けるなど、行政機構の充実が窺える。