享和三年(一八〇三)、南部領牛瀧村(青森県佐井村)百姓源右衛門の持船慶祥丸が、六箇場所臼尻村の新鱈(塩鱈)三万本余を積んで江戸へ回船の途中、暴風雨に遭い十ヵ月漂流してカムチャッカ辺に漂着した事件である。
慶祥丸は三年造り五百八十二石の大船であった。
箱館弁天町浜屋次郎兵衛と同所大町辰巳屋七郎兵衛の両名が、臼尻産の新鱈を、江戸鉄砲洲栖原屋久次郎ならびに四日市鎌倉屋庄兵衛へ慶祥丸で積み送ることになった。
慶祥丸は、船頭継右衛門ほか水主(かこ)十二人が乗り組み、享和三癸亥年(一八〇三)九月、下北の脇野沢村を出帆した。箱館で船改めをうけ、荷主の上乗り源次郎を乗せて十月臼尻村に船を回航した。弁天島の沖に澗掛りして、臼尻・尾札部辺の新鱈(塩鱈)三万一、一三〇本を積んだ。旧暦十一月八日朝、戌亥の風で臼尻の澗を江戸へ向けて慶祥丸は出帆した。
津軽海峡の尻矢崎(南部領下北)の沖にさしかかると大時化になり、積荷五、六十石をハネ捨てた。ようやく時化を避けて翌九日に仙台領唐丹(とうに)湊に入津して難船改めをうけた。多少の船の修理などを済ませ、風向を見はからい十三日唐丹湊を出帆、同領唐南へ入津。風待ちののち出帆して奥州磐城(いわき)の中ノ作湊に入津して粮米などを買い入れて同月二十八日ここを出帆して常陸の銚子の浦の沖から房総九十九里浜の沖にかかる頃日暮れとなり、夜に入ると北風に雨が烈しくなり明け方になっても止まなかった。高波が船中に流れ込むので、沈没を防ぐため積荷を必死にハネ捨てたが、一層船が危険にさらされるようになる。船中一同相談して檣(帆柱)を切捨てて転覆をまぬがれた。船方みな髪を切って神仏に祈った。
十二月一日になりようやく嵐が去って、一時は十里ばかりのところに三宅島を望むことができた。しかし、檣を切捨て自力での帆走を失ってしまった慶祥丸は、ただ波まかせ風まかせに洋上を漂う船でしかなかった。そしてまた西北の暴風が吹き荒れ、三日三晩奔弄された。船方の者は皆死んだように疲れ果ててしまった。
漂流して一と月程たった十二月二十九日、楫取(かじとり)平次郎が持病の癪で死んでいった。そして正月の中頃までまた西北の風が吹き続いて、下旬にようやく和らいだ。
二月の上旬に暖かい海上に流されていった。この頃、水主庄兵衛が息をひきとった。三月上旬、また、風雨が強くなり大荒れのために船のあちこちが破損してしまった。
四月ごろに寒さの耐え難い海上へ流されていった。
粮米も少なくなり、飲み水もなくなってしまった。この頃から骨痛みのため上乗り源次郎が死に、水主(かこ)福松も同じく骨痛みで死んでいった。仙之丞も吉五郎も死に、藤蔵、伊之助も同じく病んで死んだ。船頭継右衛門も病気になり起居ができなくなってしまった。
遙かに山を見た。ようやく漂着した無人島は、カムチャッカに近いホロムシロ島であった。生き残ったのは六人であった。上陸して土を踏んだ六人の喜びは大きかった。これから六人は北辺の小島で生きるために食を求め、暖をとり、露国人との交渉などでのながい辛苦の月日がつづくことになった。
継右衛門ら六人は、ただ、生きて故郷に帰りたい一心で、力を合わせて筏様の舟を手作り、千島の島々を島から島へ渡り、一歩でも蝦夷地へ近づこうとそれぞれ心を砕き力を合わせた。
ときには原住民の情けに助けられて、ようやくエトロフ島にたどり着いたのは文化三丙寅年(一八〇六)七月二日であった。髪は総髪で、鳥の羽根でつくったものを身にまとった異様な姿の六人に驚き、エトロフ島に詰めていた侍たちが取調べ、早速、箱館奉行へ急報した。
継右衛門ら六人は、翌年四月エトロフ島を出発して箱館に護送され、奉行の取調をうけ、七月幕府より下知があり、八月一四日、奉行羽太正養より南部藩に六人の身柄が引き渡され、まる四年ぶりで故郷の下北牛瀧村(青森県佐井村)に帰ることができた。
南部領牛瀧村船方之者共魯西亜国江漂流上申書 (市立函館図書館所蔵)
南部大膳太夫領分 奥州北郡牛瀧村百姓 源右衛門持船
三年作り五八二石積 慶祥丸
沖船頭 禅宗佐井湊長福寺 継右衛門 卯四十三歳 家内五人相暮
水 主 同断 専右衛門 卯二十九歳 家内四人相暮
同 同断 吉五郎 卯四十二歳 家内弐人相暮
水 主 同断 弥 内 卯三十一歳 家内七人相暮
同 浄土宗佐井発心寺 勘右衛門 卯四十歳 家内七人相暮
同 禅宗佐井長福寺 岩 松 卯二十三歳 兄友右衛門厄介ニ相成リ
一同船乗渡世仕罷在候
然ル処牛瀧村百姓源右衛門方ヘ雇人ニ相成候テ
水主 牛瀧村 平次郎
同 脇之沢村 庄兵衛
同 長子村 伊之助
同 川内村 福 松
仙之丞
吉五郎
藤 蔵
都合一三人乗組
右申口
私共儀
文化元子年七月
魯西亜属嶋ノ内 ホロムシリ嶋ヘ漂流仕
夫ヨリ カムチャッケノ内 カワシ湊ヘ罷越
同所ヨリ 小船ニ乗組 ヱトロフ嶋迄 致渡海候
始末
御吟味ニ御坐候 此段一同申上候
享和三亥年
箱立辨天町濱屋次郎兵衛
同所大町 辰巳屋七郎兵衛方ヨリ
江戸鐵炮洲 栖原屋久次郎
四日市 鎌倉屋庄兵衛方ヘ相送候
箱館附臼尻村御産物積請候ニテ
九月 南部領脇之澤村出帆
同月下旬 箱立湊ヘ入津仕 船御改ヲ請
右荷主共ヨリノ上乗 源次郎乗組
同一〇月 同所出帆 臼尻村ヘ着岸
同所ニ於テ 塩鱈三万千百三十本積入
右ノ内 三分ノ一 御買上ニ相成候由
箱館ヨリノ御送状
辰巳屋七郎兵衛代 庄兵衛ト申者ヨリ請取
右源次郎共 都合十四人乗組
十一月八日朝
戌亥風ニテ臼尻村出帆致候所
同日夜ニ入 南部領尻谷村沖合ニテ大荒致
高波船槽ヲ打越 船中ヘ泡水相増 船危ク相成候
ニ付 荷物凡五六十石目モハ子捨 漸相凌
翌九日 仙台領唐丹湊ヘ入津致
同所ニ於テ難船改ヲ請
同十三日
同所出帆致
同領唐南湊ヘ入津 夫ヨリ同所出帆
奥州岩城ノ内中ノ作湊ヘ入津 同所ニテ粮米等買
入
同月二八日 同所出帆
翌二九日 常陸(州)ノ銚子浦沖ヨリ総州九十九里浜沖
合ヘ走参リ候内日モ暮候所
同夜四時頃ヨリ 北風ニ相成 雨降出シ
九時頃 次第ニ風雨強(つよく) 明ケ方ニハ弥風雨烈敷(はげしく)
高浪船中ヘ打込 淦水(あかみず)五尺程モ有之候間
乗組一同身命ヲ抛(なげうち) 相働候所
翌晦日モ同様故 種々手当致 波ニ漂ヒ罷在候所
北風吹募(つのり) 大シケニ罷成 楫取者ノ頭ノ上ヨリ
高波打越候間 追々積荷ハ子捨候得共 船危相成
候ニ付 船中一同相談致檣切捨
何モ髪ヲ切 神仏ニ祈 相凌居候所
同十二月朔日
雨降止 同日夕七時頃ヨリ少々風モ和キ候所
三宅嶋凡十里程トモ見請候ニ付 右嶋ヘ着岸仕度
帆桁柱ニ建 走向候得共 捗取不申
翌 二日
西北風強吹出シ
又候 高波 船中ヘ打込
三宅嶋地方ヨリ 三日ノ間 沖ヘ吹出サレ
辰巳ノ風ニ相成候間 猶又 地方ヘ船寄度
帆ヲ以 二日二夜程走候間 モハヤ地方モ近ク相
成候義ト何モ相歓罷在候所
又々西北ノ風ニ吹替り 四日程ノ内遠洋ヘ吹ハナ
サレ漂ヒ罷在候内
同月廿九日
牛瀧村捐神平次郎 持病ノ癪気ニテ相果申候
翌享和四甲子年 正月中頃迄
引続 西北風強ク遠洋ヘ吹離サレ 長々ノ大荒ニ
テ 船中一同相労レ 一同働方不相成 最早絶命
致候事ト覚悟仕候所
同月下旬ヨリ
波モ和ラキ日和ニ相成候間 何卒地方ヘ船寄度
猶又帆桁ヘ帆ヲ掛走候所
二月上旬頃 殊外暖気ナル海上ヘ参候所
脇ノ沢村 水主庄兵衛 持病ノ癪ニテ 同月三日
相果申候 此海上ニ
三月上旬迄 漂ヒ罷在候内
南風吹来候間 西ノ方ヲ心掛走候所 雨降出シ
風雨烈敷 大シケニ相成候間 高波櫓ヲ打越 是
迄ノ大荒ニテ船所々相損居候間 今ニモ崩レ一同
相果候義ト存詰罷在候所 不思議ニ船相保チ 右
大風ニテ北ノ方ヘ吹流サレ
四月頃ニ相成 寒気堪兼候間
何レノ国地ヘ参候哉ト何レモ打警候得共 一向山
モ不相見
致方ク 竹簀 又ハ船棹等ヲ焚 寒気相凌罷在候
所
永々洋中ヲ漂ヒ候間 追々粮米 呑水ニモ差支候
ニ付
積荷残リモ有之候間食用ニ仕度候得共 塩魚ノ
義故 咽カハキ 致難儀候ニ付 食用ニ仕リ難
朝タノ食事モ 飯少シ 可相用
呑水ハ櫓ノ上ヘ穴ヲ明テ 船中ヘ流込候様ニ拵
雨水ヲ取り候ハバ 漸相凌罷在候
然処 長々寒暖不同ノ海上ヲ漂ヒ 其上食物不足
仕候故ニヤ
乗組ノ者共 病人多有之
四月下旬 長子村 伊之助 惣身黒ク相成骨痛致
相果申候
七月上旬迄ノ内
箱館荷主ヨリノ上乗 源次郎
並 川内村 水主 福松 仙之丞 吉五郎 藤蔵
義モ伊之助同症ニテ相果申候
継右衛門 勘右衛門義モ病気ニテ起居モ不相成候
ニ付
専右衛門 弥内 吉五郎 岩松 四人ニテ介抱
彼是船中ノ手当等致 漂流罷在候得共 一向地方
モ不相見
同年七月十八日頃ト覚エ
遙ニ山ヲ見掛候間 一同相悦(あいよろこび)山近ク走参り
碇弐所ヲ以テ 船繋 艀船ヘ乗組
有合ノ衣類並 残米一斗二三升 鍋釜等積入
其節 何レノ地方カ不相知
魯西亜属嶋ノ内 ホロムシリ嶋 東浦ノ方ヘ漂流
着仕候所 海岸通 昆布夥敷有之候間
定テ蝦夷地ノ内ニモ可有ト存
右最寄 四日程ノ内 人家ヲ相尋候得共 一向見
当不申
継右衛門 勘右衛門ハ病気ニテ 追々食物ニ差詰
リ誠以当仕候内
南風強吹出シ 繋置候処 慶祥丸碇総吹切 遠沖
ヘ流失致候間
旁以此所ニ罷在候テモ詮方ナシ
艀船ヘ一同乗込 方角未ノ義モ不心付
右ノ所ヨリ東北ノ方ヘ出船致
ホロムシリ隣嶋シュムチチャウ嶋ハ 渡海ノ間
僅一里計モ有之候間 同地方ト心得 渡海致
夫ヨリ同島乗外シ候所凡四五里ノ海上ヲ隔廣大ナ
ル地方相見候間 兼テ物語ニ承リ及候
蝦夷地ノ内ノ離レ島ニテ向地ハ松前地方ニ可有之
ト存
シュムチチャウ嶋ヨリ
八月中旬頃 渡海仕候所 人家無之候間
夫ヨリ地方 東浦通リ二日程ノ内 船行仕候得共
一向人家無之 猶先々ヘ罷越度候得共
食物無之 海藻抔ヲ拾ヒ 漸々 飢ヲ凌キ罷在候
処 此辺食物ニ可致品モ不相見
勘右衛門義ハ上陸モ成兼候程ノ病気ニテ
継右衛門義ハ漸々杖にスガリ上陸致候間
其辺ニ有之候 流木ヲ集 焚火致為相凌
此所ニテ一同餓死仕候義ト覚悟イタシ候間 誰一
人船ヲ引上候者モ無之 其儘波打際ニ捨置
何レモ故郷ノ事抔存出シ 落涙ノミ仕
浜辺ニ打臥罷在候処
其節名前不相知ホロムシリ夷人イハン外 男女八
人
並魯西亜国出家一人乗組右島ヨリ カムチャッケ
ノ内カワン湊ヘ罷越候小船遙向ノ出嶋ノ方ニ相見
ヘ候ヲ
弥内見付候テ一同ヘ為知候間 誠ニ以甦生仕候心
地イタシ定テ 此方ノ漁船ニテ可有之ト存
浜辺ヘ立出 相招タル 沖間ヨリモ 見付 船寄
セ 上陸仕候処
何モ革服ヲ着シ 髭ヲハヤシ 蝦夷人ノ風俗ユヘ
弥 奥蝦夷地ノ内ニ可有之ト安心イタシ候所
右ノ者共ヨリ 何カ申聞候得共 一向不相分候間
私共儀 飢ニ及ヒ居候間物ヲ喰候真似ヲイタシ候
所
煮肴ヲ呉候ニ付 食用ニ致 飢ヲ相凌候間
此者共ニ逢候上ハ助命モ相成候義ト心強相成候所
是ヨリ跡ノ方ヘ戻リ候テハ 船ヲ覆シ相果候由
目ヲ眠り 死ヌ真似又ハ橋船ノ艫綱ヲ引起シ 艫
ヲコキ真似抔(等)イタシ
先々ヘ参候得ハ 助命仕候義 漸々相分リ候間
私共ヨリウナツキ候所
彼等 船ヘ継右衛門ヲ乗セ候間 右ノ者共ヨリノ
教ニ任セ 夫ヨリ
廿日程ノ内 同様 船行仕候間
間レ不違 松前地方ヘ着船仕候義ト相心得候ニ付
言語ハ不相通候ヘ共 私共ヨリ 松前々々ト申候
ヘハ 松前ハ遠キ由答候義相分候処 右ノ者共ノ
風俗
惣髪ニテ髪ヲ三ツ打ニイタシ 頭上ヘ巻上ケ
何レモ鉄砲一挺ツツ所持イタシ候間 奥地蝦夷人
共ハ 鉄砲所持イタシ候哉
右ノ内 頭立候モノハ 革服モ宣 一体顔立モ外
夷トモ 事変り髪ノ毛モ赤ク
下札 本文 頭立候者ハ魯西亜国ノ出家ノ由 追
テ相分申候
一体出家ノ風ハ 属嶋夷人共同様 打髪ニイタシ
居候由
カワン湊ニテ逢候 右出家ノ外 魯西亜人ハ 上
下不残乱髪ニテ御坐候
相見候間 不審ニ存同船仕候所 明日ハ 赤人ノ
所ヘ参候旨申聞候
扨ハ 赤人ノ国ヘ参候哉ト 初テ心得 一同恐
レヲナシ候所
一体 右ノ者共 何事モ深切ニ世話イタシ呉候間
赤人ノ国ヘ罷越候上ハ 帰国モ難相叶存モトノ嶋
ヘ立戻リ 蝦夷人共ノ介抱ヲ請 同嶋ノ夷人共ハ
松前ト申義モ存居候間 其内ニハ様子モ相分リ可
候ニ付 先々ヘ罷越間敷旨 相談イタシ 右ノ者
共ヘ 色々物真似イタシ 赤人ノ所ヘ難罷越候間
此所ヘ待合候テ 元嶋ヘ立戻り度候ニ付 赤人ノ
所ヨリ帰カケ 一所ニ召連呉候様申聞候所 是ヨ
リ帰候テハ 食物無之候ニ付 明年雪消草ノ延候
時参候様 彼等ヨリモ様々物真似イタシ漸々相分
候ヘ共 何卒元ノ嶋ヘ帰リ度思候ヘ共 右頭取ハ
魯西亜人ノ義 相分候間
所詮 元嶋ヘ差帰シ申間敷 此上如何様ニ成行候
共致方無之候間 右ノ者共ヘ 附添参候処
無程 赤人ノ所ヘ参候由物語イタシ候内
沖合ヨリ異形ノ大船一艘相見候処
右ノ者共義 私共ニ不相構 大船ヘ船乗寄セ
間モナク 大筒打出候間
是ハ 彼等ヨリ手引イタシ 一同被打殺候事ト存
誠ニ以恐敷 船中ヘ平伏イタシ候所
右大船 地方ヘ向走参候間 私共安心イタシ
蝦夷人共モ 引続 地方ヘ参候
私共船モ跡ヨリ参候所
口狭ク川ノ様ニ相見候間 船乗入候所
奥広ク 最上ノ船繋場所有之 大船モ入津イタシ居
夷人共ハ 先ヘ上陸イタシ 此所ヘ参候
相招候間 着岸イタシ候所
何モ黒革ノ笠ヲ被り 髪毛赤白ニ相見ヘ 眼中白
ク異形ノ人
浜辺ヘ出候間 則赤人ノ所ト存候所
右ノ者ノ内ヨリ 船ヲ繋可申船頭ハ誰ニ候哉ト日
本言葉ニテ声掛候間 私共 甚不審ニ存
頭 ハ継右衛門ノ由相答候所 其元計上陸イタシ
水主ハ船ヲ向ヘ回シ候様申聞候間
継右衛門ハ致上陸 漂流ノ趣申聞 扨此所ハ何カ
ト申所ニ
有之候哉ト承候所 魯西亜国ノ内 カワント申所
ニテ
最早 此所ヘ参候テハ案口候義ハ無之
自分義モ 仙台領出生ノ者ニテ 先年 此国ヘ漂
流セシ者ノ由 同国ノ義故何如様ニモ世話可致由
其節名前不存 通詞 善六事 ベッケンハンヨリ
申聞候間 安心イタシ
何分可然様 相頼 同人同道ニテ 船ヲ繋候所ヘ
参候所
板蔵体ノ所ヘ 私共不残差置 先ツ此所ニテ致休
息候様申聞罷帰り
無程 善六参 当所 詰役人共ヨリ 用向有之
商人宅ニ於テ 継右衛門ヘ逢候ニ付参候様申聞候所
善六同道ニテ継右衛門計 商人方ヘ参候所
一方口ニテ 内ハ土門ヘ直ニ板ヲ敷回リ腰掛ケ有之
正面ニ役人体ノ者罷在 継右衛門義モ腰掛候様
善六申間候聞其通ニイタシ候所
私共漂流中食物ノ義 相尋 夫ヨリ何ノ浦ヘ漂着
候哉ヲ相尋候間
何ト申嶋ニヤ 一向不相弁 此方ヨリ四五里海上
ヲ隔タル嶋ヘ着候旨申候所
外ニ相尋候義モ無之
砂糖ヲ入候 茶ヲ振マイ申候
且又 此辺ハ カムシャダト申候テ 蝦夷人同様
ノ人物計住居イタシ
カワン湊 魯西亜人家数二十軒計有之候得共
本国ヨリ相詰候 足軽体ノ者共計故 私共一同差
置候程ノ家無之候間
引分差置候様 宿割ノ義 役人共ヨリ 夫々申付
候間
追々引続候様 善六申聞 四五日ノ内ハ 右板蔵
ニ罷在
夫ヨリ 継右衛門岩松ハ 善六方ニ同居イタシ
吉五郎ハ弥内ト一所ニ罷在 専右衛門ハ勘右衛門
ト一所ニ罷在
日々ノ食物ハ 商人ヒヤウトロ ト申者ヨリ 麦
ノ粉ヲ目ニ掛 革袋ニ入渡シ申候
然ル所 吉五郎外三人トモ 手狭ナル故 何モ窮
屈ニテ難儀イタシ候上ニ
専右衛門等ノ同居イタシ候宿ノ女房 抔ヨリノ言
語ハ不相通
何カ訳合ハ相知兼候得共 日々ノ取扱方 以ノ外
不宜候故
同居ノ義 何分難儀至極ニ付 一同相談ノ上
私共手限ニテ 別ニ小屋ヲ作リ致住居度 善六ヘ
相頼候所
勝手次第ニイタシ候様申聞 最早 雪モ降寒気強
候得共
山ヘ参リ家木伐出シ 五葉松ノ小木沢山ニ有之候間
伐取右小木ヲ以テ 屋根壁等ニ相用 屋根上ヘ土
ヲカケ居小屋取立
継右衛門 岩松ハ 矢張 善六方ニ同居イタシ
専右衛門 吉五郎 勘右衛門ハ右小屋ヘ引移候所
雪中ニ取建候義故 風烈ノ節ハ 屋根ヲ吹マクリ
寒気堪ヘ兼 凌方難渋イタシ居候所
カワンヨリ辰巳ノ沖ニ有之嶋ノ由アリヲットト云
嶋ヘ商ヒトシテ罷越候商船
カワン湊ニ囲ヒ有之 右船頭ノ内アラリヤノハシ
リイチト申者
私共ノ居小屋ヲ見 寒風ノ節斯ル小屋ノ住居イタ
シ候テハ難儀可致候間
手前船方ノ者共差置候小屋 手広故 一所ニ差置
候
善六ヘ申付候由 同人ヨリ申聞候間
専右衛門ヲ始 右居小屋ヘ引移リ 魯西亜人水主
ノ者共ト同居仕候処
一体 食物不足ノ品ニテ重ニ 魚肉計相用且国風
ニモ候哉
食物ノ魚類薪等モ 多分貯置不申 其郡度魚ヲ取
食用ニイタシ
薪モ 日用計伐出シ 罷越間
専右衛門外三人ノ者共モ ヲロシヤ人水主共ト同
居ノ義故
諸事手伝等不致候間 厳寒ノ時節モ薪取ニ山ヘ行
又ハカワン湊内ノ氷ヲ打砕 網ヲ引ク手伝抔イタ
シ誠ニ似難儀ニ候ヘ共
彼国ノ扶助ニ成候義故 タトヒ其儘相果候共致方
ナク難渋ヲ堪ヘ相凌候所
去ル子年
十二月
カムチャッケ重役人ノ由ハウノイワノイチ ト申者
陸通リ カワン罷越 継右衛門ヲ始 一同旅宿ヘ
呼寄
通詞善六ヲ以申聞候ハ 此所ヘ罷越 嘸々物毎不
自由ニテ難儀可有之
先年 日本ヨリ漂流イタシ候 幸太夫ト云人ヲ送
リ松前表ヘ船差向候所
日本ニテ甚 手厚ク取扱有之 其上米酒等貰受
其節 松前ニテハ商売相成兼 長崎ニ於テハ商売
相成候由ノ書付請取 帰帆イタシ候間
当年又候 日本漂流人ヲ此方大船ヘ乗組セ 長崎
ヘ差向候ニ付
何ノ音ニ有之哉ト 不審ニ存 浜辺ヨリ帰候所
カワンノ者共 何レモ衣服ヲ改メ 殊ノ外立騒キ
大筒様ヲ取出シ 湊口ヘ飾付 長崎ヨリノ帰船有
之由申触候内
凡二千石積餘トモ相見候 大船 湊口ヘ着イタシ
候所
此方ヨリ夥敷大筒ヲ打出シ 大船ヨリモ大筒ヲ打
放入津仕候間 私共不残浜辺ヘ出
同年ノ内直ニ長崎迄大船ニテ被送帰候事ト誠以相
悦 少モ早ク 長崎ノ様子承度存罷在候所
通詞善六罷越 長崎ヘ参候役人共 今日上陸不致
候間
日本ノ様子不相分 何カ不宜風聞有之候得共 案
思候事ハ無之
追々様子承糺シ 相咄可申由ニテ 役人共方ヘ同
人参候得共
其夜モ様子不相分
翌日 右役人共上陸イタシ候間 様子モ相分可申ト
タノシミ罷在候所
善六 役人共方ヨリ 罷帰 扨々 長崎ノ義モ不
宜訳ニテ 此方重役人兼テ 咄置候通
善六 一所ニ 彼国ヘ漂流イタシ候者共ノ内 四
人召連
数々土産物持参 長崎ヘ着船商売ノ義申出候所
右土産物モ不請取
追々日本トハ近シク可相成候間
明年大船ニテ帰国可致 私共乗参候小船ニテ嶋伝
ヘ日本ヘ帰国
イタシ候テモ サノミ遠キ事モ無之候得共 追々
便モ有之義故
大船ニテ帰候申聞 酒杯振マイ申候
扨彼等ヨリ日本迄ノ嶋続ノ様子 並 日本地図等
相認板ヘ張付
役人共居間 羽目板ニ下ケ置候ヲ一覧イタシ候様
バウイイハノイチ 申聞候間 進寄見候所
魯西亜国ヨリ日本迄嶋伝ノ様子相分申候
尤 継右衛門ハ 船頭役ノ儀ニ候間
折々役人共ノ宅ヘモ罷越 右絵図ノ趣存居候ヘ共
其外ノ者共ハ 初テ嶋伝ヘ日本迄帰ラレ候義相弁
何レモ バウイイハノイチヨリ申聞候ヲ 悦ヒ
明年 長崎ヨリノ帰船有之 次第 大船ニテ帰国
相叶候
間心強ク相成 越年イタシ 日々長崎ヨリ帰船相
待居候所
丑 五月十日頃ト覚ヘ
弥内 勘右衛門 山ヘ薪取ニ参候所
沖ノ方ニテ 何カ大ソウニ響候間
此方ノ者共ヘ番ヲ附置 一向他出モ致サセス 商
売モ難
相成由申渡有之
召連候漂流人四人モ 最初ハ日本ニテ受取申聞敷
由申聞
出帆前ニ至リ 漸々請取相済候由
前書ノ通 先年松前表ヘ参候節ハ甚手厚取扱
米酒等モ貰請候所
右取扱トハ事替リ 此度長崎ヨリノ取扱方以ノ外
不宜
由ニテ重役人 昨日上陸モ不致 殊ノ外不機嫌ニテ
今日漸々上陸イタシ 右ノ趣承候間 猶長崎ノ様
子段々物語有之候所
右漂流人四人ノ者共ニモ 日本取扱不宜 是非魯
西亜ヘ
召連帰リ呉候様
度々役人共ヘ相頼 若魯西亜ヘ不召連候ハゝ 自
滅イタシ候トテ
刃物ニテ咽ヲ突候ヲ 漸々取押へ候由
一且日本ヘ連渡リ候者共ヲ又々魯西亜ヘ連帰候テハ
役人共ノ訳合相立カタク候ニ付
日本ヘノ引渡候所 直ニ入牢イタシ候由
定テ 被殺候儀ニモ可有之
先年帰国イタシ候 幸太夫モ被殺候由
善六ハ 彼国へ残リ仕合イタシ候由 役人共ヨリ
申聞候由
扨同人義モ 日本交易相始候ヘハ通詞イタシ
日本ノ地モ踏候ツモリニテ 昨年ヨリ 当所ニ残
候所
商売不相成候テハ 日本ノ地モ踏マレ不申
私共抔モ 大船ニテ 中々帰国不相成由
具ニ物語イタシ 一体 善六義ハ 彼国ノ言語ハ
至テ
能覚宗門ニモ入候間 平生 仏ヲ飾置 金ニテ拵
候 十文字様ノモノヲ 首ヘ掛 朝夕信仰イタシ
名モ ベッテハン ト相改通詞モ致候程ノ義故
日本帰国ノ情聊無之却テ 日本ヲ アシ様ニ申成
魯西亜ヲ尊ミ候間 所詮 私共帰国取持モ仕間敷
如何可致哉ト一同悲歎罷在候 然所 長崎ヨリ
着船
翌日 同所へ参候 重役人ニカハイハイタルイチ
ヨリ用事有之候間 一同罷越候様申参候ニ付
早速 旅宿へ参候所 右役人ハ 善六物語ニハ
彼国大名ノ由 日本詞少々覚居リ
継右衛門ヘ直ニ 漂流ノ様子杯承リ候へ共 所々
詞遣イ難相分
通詞善六ヨリ 承リ相分リ候間
彼国ノ厚キ世話ニ相成候 礼ヲ述候所
猶又 ニカハイハイタルイチヨリ申聞候ハ
長崎ヘ参リ 私ハ能拵ヘマシタカ
日本ニテ拵ラヘマセシヨシ 申聞
夫ヨリ イロイロ日本詞ヲ以 相咄候へ共
最初申聞候事計 相分リ 其外ハ一向相分不申候所
右役人ヨリ通詞善六ヘ申談 同人ヨリ私共ヘ相咄
候ニハ
交易モ相成候由ノ書付 日本ニテ相渡候ニ付
昨子年 長崎ヘ土産物持参 渡来イタシ候所
日本ニテ土産物モ不請取
此方者共ヘ 番人付置 他出モ不為致 右書付モ
渡シ
置ナカラ 交易モ難相成段日本ノ取扱不宜候間
此方ノ船ハ最早 渡海不致候由
依之 私共 弥打寄相歎 罷在候処
長崎ヨリ役人帰船後ハ 甚以 取扱方不宜
是迄相渡呉候 茶莨抔モ 一向不相渡
カワン中ノ者へ 日本致方不宜趣申触候哉
私共ヲ見掛候ヘハ
子供ニ至迄 ヤッポン ボウダ ヌハ ヤッポン
ソハカ抔ト申候
是ハ彼ノ国ノ詞ニテ 日本ハ悪シ 日本ハ犬 ト
悪ロイタシ候義ニ御座候
ヤッポントハ 日本ノ事 ホウタトハ 悪シキ事
ソハカトハ 犬ノ事ニテ
カワン湊 子供ニ迄 悪口イタシ候程ノ事ニテ
継右衛門ハ 船頭役故 働方等ハ 不申付候ヘ共
専右衛門 其外ノ者共ヘハ 是迄ト違ヒ 様々働
方申付候上 手当等モ無之候間
誠以 難渋仕候 折柄
一同 相談仕候ニハ
長々 彼国に艱難イタシ居候テモ
日本商売ノ義モ無之候ヘハ 如何相願候テモ
大船ニテ帰国ハ迚モ難相成候ヘ共
素ヨリ私共 彼国落付候 心底毛頭無之 其上言
語モ不通候間
暮方ノ稼モ不相成 殊ニ食物不足ノ国柄ユヘ
所詮 露命モツナキカ子可申
兼テ役人方ニテ 見及置候絵図面ノ趣ニテハ
嶋伝ヘ 日本帰国モ可相成
併 海上遙ノ所 海路ノ様子モ不相弁
殊ニ小船ニテ渡海イタシ候事無覚束
途中ニテ相果候義ハ必定ノ義ト覚悟イタシ
何ニモ先々ノ嶋ヘ渡海イタシ 追々日本近島ヘ渡
候ハゝ
松前ノ方角モ相分リ可申左(様)候ハバ帰国モ可相成
乍去 万一無事ニ帰国候共
定テ 幸太夫其外ノ者共ノ通 重々御仕置ニ可相
成候共
迚モ相果候身分ニ候ハハ 故郷ノ者共ニモ帰国ノ
様子為承
日本ノ土ニ相成候義ハ 此上モナキ 本望ニ御座
候間 一同決心イタシ
丑年 五月末頃
私共乗参候小船ヲ以 嶋伝ヘ日本ヘ帰国イタシ度段
通詞善六ヘ申聞候所
甚以不了見ノ至 私共計ニテ中々嶋伝 帰国難相成
殊ニ先日モ相咄候通 無事ニ帰国候共
幸太夫其外ノ者同様 被殺候義ハ必定ノ事故
彼国ニ止リ可申 其内ニハ詞モ覚候ハヽ
如何様ニモ暮方可相成候旨 善六申聞候間
此上先キ嶋々ハ不及申 何程ノ難儀有之候テモ不
苦候間
是非 帰国ノ義 役人共ヘ願呉候 相頼候所
夫程ニモ存込候ハハ 役人共ヘ可申立由ニテ
カワン役人ハウコウメワイライチ ト申者ノ宅へ
私共同道イタシ
右ノ趣 善六ヨリ申立候所 前書ノ通 幸太夫ヲ
初トシテ 被殺候趣
並嶋伝 帰国ノ義ハ 遠海ノ所 小船ニテハ中々
難罷越半途ニテ相果可申候
彼国ニ留リ候様 善六ヲ以テ 再度申聞候ヘ共
最早 私共帰国ノ義 決心仕居候間 途中ニテ相
果候義モ覚悟イタシ候ニ付
帰国ノ義 差免呉候様 強テ申立候所
左程ニ帰リ度候ハハ任其意候様 申聞候間
役人共方ヲ引取候所 夫ヨリ二日程相立
長崎ヘ参候役人方ヨリ 一同呼ニ参候間 善六同
道ニテ罷越候所
私共義 日本帰国ノ義 以ノ外 心得違ノ趣宜ニ
申聞
最初 善六ヨリ 私共ヘ相咄候通 長嶋ヘ連渡候
漂流四人ノ者共義 自滅ノ覚悟イタシ咽ヲ突候節
ノ真似抔イタシ
且又 永々ノ海上ユヘ 小船ニテ参候テハ 必定
相果候故
彼国ニ止リ可申若 此所ノ住居不宜候ハハ 外場
所ヘ差遣可申候間
帰国致間敷旨 通詞善六ヲ以テ申聞 又ハ自分ニ
モ申渡候
タトヒ日本帰国不相成候共 日本近地ニテ相果度
候間
嶋伝ヘニ帰国イタシ度旨 相答候所 夫程迄ニ思
ヒ込
帰国相願候ヲ 此方ニテ強テ引留候義ハ無之候間
勝手次第 可致 乍去 心得違ノ趣申渡候由ニテ
帰国願モ相済候所
私共計ニテハ 異国ノ海上 一向不相成候得共
兼テ相果候 覚悟仕候義故 必死ニ相成
夫ヨリ 艀船ノ手入 食料ノ魚類等 相貯
風順次第 カワン湊 出帆ノ用意イタシ 日和相
待居候内
継右衛門義ハ 商人ヒヤウトロ方ニ罷在
其外ノ者共ハ 矢張 是迄ノ通 働方イタシ居候所
同年 六月中旬頃 風順ノ気色故 乗船ノ手当イタシ
翌朝 北風ニ相成 出帆日和故 継右衛門義ハ
通詞善六方ヘ参リ
今朝 風順故 弥 出帆イタシ候間 其段 役人
方ヘ断呉候様相頼
同人同道イタシ カワン詰役人ハウコウメハイウ
イチ方ヘ参候所
イマダ臥居候ヲ 善六起シ候テ 右ノ趣 申聞候所
扨々馬鹿者共ニテ 中々帰国不相成 途中ニ於テ
相果候間
彼国ヘ止メ候様 猶又申聞候ヘ共 前書ノ通 申断
是迄厚キ世話ニ相成候義 能々 礼申呉候様 善
六ヘ相頼罷帰候所 無程 同人罷越
長崎ヨリ参候 米ノ内 当所役人共ヨリ相送呉候間
商人ヒヤウトロ ヨリ 請取可申旨申聞候間
専右衛門 其外ノ者共 商人方ヘ参候所
目方掛 凡米一斗五升程相渡申候
継右衛門義 出帆前 右商人方ニ在
万端深切世話イタシ呉 衣類等モ貰受候間
暇乞ニ参段 厚世話ニ相成候義 相謝シ
右貰受候衣類差戻候所 達テ受納イタシ候様申聞
候ヘ共
是ヨリ返礼イタシ候品モ無之候間 押テ差戻
艀船ニ 私共一同乗組候所
善六義ハ 浜辺迄見送り 中々日本迄帰国ハ相成
間敷旨 申聞候テ相別
順風ニテ カワン湊 出帆イタシ
一四、五日
船行イタシ シムチチャウ嶋ヲ見掛候間
渡口へ参候所 最早用意ノ魚物無之ニ付 貰参候末
可相用所先々渡海ノ程モ難相分候
右米ハ貯置 草根又ハ寄貝抔拾ヒ取 食用ニイタシ
何ニモ助命サヘ仕候ハヽ嶋伝ヘ帰国相成候義ヲ
力ニ存 相凌キ日和待イタシ候所
順風ニ付海辺ニテ潮ヲ浴ヒ 何卒無事ニ帰国仕候
様神仏ニ念ジ
出帆イタシ シムチチャウ嶋近相成候所
向風強吹出シ 少モ船進ミ難候間
心命ヲ抛働候へ共 船ヨリカタク 彼是イタシ候内
日モ暮 高波ニ成 遠沖へ吹流サレ
小舟ノ義ニ付 手当ノ致方無之 此所ニテ相果候
時ノ節ト覚悟イタシ
継右衛門始 一同船中ニ打伏 今ニモ波ニ被打込
候哉ト
度々存詰 流次第ニ致居候所
夜中 沖ノ方ヨリ風吹来リ候間 又々力ヲ得
地方ヘ船寄セ候所
夜モ明候ヘ共 シムチチャウ嶋ハ不相見
魯西亜地方 右渡口ヨリ 西ノ方二十里斗有之候
海岸ヘ参候間
同所ヘ船ヲ付 四五日其所ニ罷在
夫ヨリ西海通元ノ渡口へ着
能々日和見定致 出帆
シムチチャウ嶋ヘ無事ニ着岸仕候所
食物無之候間
寄鯨ノ骨斗 有之候ヲ 拾ヒ 骨ノ間ノ肉ヲ掘
食用ニイタシ
夫ヨリ 同嶋乗離候処 一里斗ノ渡海ニテ 向ニ
地方相見 昨年漂着ノ節ハ 一ツ嶋ト存候所 別
嶋ニ御座候事初テ相弁
矢張 ホロムシリ嶋 東浦へ
七月中旬 着岸 三日程 船行仕候所 向 出崎ニ
夷人二人罷在候間
誠 以力ヲ得 右ノ者共居宅ヘ 一同参リ 飢ヲ
モ相凌 嶋名ヲ承候所 ホロムシリ嶋ノ由 申聞
初テ最初同所ヘ漂着ノ事相弁申候
其節 私共ヲ カワン湊迄送リ呉候夷人イワンテ
レヲン抔モ罷在候間
別テ力ヲ得 日本地ノ様子承候所
随分嶋伝ヘ罷越候義も相成候由
同嶋 長夷 ヲンテレト申者 申聞候間
直ニ出船可致候所
ホロムシリヨリ先嶋ハ 船着場岩多ク
中々 私共船ニテハ難
相越 ヤカテ 先嶋ノ内 ヲショア場ノ者共
魯西亜地方ヨリ此所ヘ罷帰候間
右ノ者共ノ帰船ヘ乗組 帰国イタシ候様 ヲンテ
レ申聞候間 任其意相待候内
ランヨア嶋長夷マキセン其外夷人共帰船仕候所
私共ハ行違 海上ニテモ見掛不申 弥
ヲショア嶋ノ船ニテ被送佳候積故
私共艀船ハ ホロムシリ嶋ヘ残シ
長夷マキセン一同
七月下旬
ホロムシリ 出船イタシ
海路十八九里程ニテ ヲン子コタン嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡六七里程ニテ ハルマコタン嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡一一里程ニテ シャシコタン嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡六里程ニテ モシリ嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡十七八里程ニテ ウクアキ嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡五六里程ニテ モトワ嶋ヘ渡リ
夫ヨリ凡七八里程ニテ
去ル丑年 八月初旬 クショア嶋へ渡候所
同年ハ 先嶋々ヘ難罷越候間
致越年候様 マキセン申聞候間 同嶋ニ越年
継右衛門吉五郎ハ マキセン方ニ罷在
専右衛門ハ マツヘト申者ノ方ニ罷在
弥内 岩松ハ バテト申者方ニ罷在
勘右衛門ハ ワシリト申者方ニ罷在
右嶋中ノ者共ヨリ 厚介抱ヲ請 相凌罷在候所
ヱアトロフ嶋ヘハ 日本人大勢渡海有之候趣
右ノ者共咄ニテ 初テ承り
誠以帰国仕候心地イタシ 何レモ相悦申候
私共 ラショア嶋へ着船 間モナク
ウルツフ嶋ヨリ帰船イタシ候由
魯西亜人男九人女二人子供二人 都合一三人
小船ニ乗組着船仕候間
私共モ立出 辞儀イタシ候所
マキセンヘ致用談
同人住所ヨリ 一里程相隔 モトワ嶋渡口
夷家二軒 有之所ヘ 其日罷越
同所ニ致 越年候
右ノ者共義 服ハ犬ノ皮抔ヲ相用
殊ノ外貧窮ノ様子ト相見 越年中マキセン方ヘモ
参候ヘ共
言語ハ不相通候間 咄合等モ不致候ヘ共
同人ヨリ カワン湊ノ様子抔相尋候間
長々ノ内 彼地ニ於テ世話ニ相成候旨申聞
私共 カワン湊ニ 一ヶ年迄ハ不居候間
彼国ノ言語モ不相覚候間
何故ウルップ嶋ニ罷在候哉
右談合モ承リ不申候所
マキセン咄ノ趣ニテハ
商賣為 先年ウルッフ嶋ヘ致渡海候者ノ由
夫故 奥嶋様子モ不相弁 初テ ラショア嶋ヘモ
参候者ノ由
其外 近年 ヱトロフ アッケショリ 蝦夷人共
ウルッフ嶋へ 一向渡海不致趣
魯西亜人ヨリ承リ候旨 マキセン相咄申候
扨又 去春ニ相成候処 ラショア嶋 食料不足ニ付
通船気候ニハ イマダ早ク候得共 先嶋々ヘ出帆
イタシ度
且 私共 六人同嶋ノ者七人 都合一三人 乗船
ヱトロフ嶋迄罷越候義ハ宜候ヘ共
帰帆ノ節 人数不足ニテ 難儀ニ候間
同所蝦夷人共乗組セ 帰帆致度候間
ヱトロフ着ノ上 其段願呉候様申聞候間
ヱトロフ着岸候ハヽ早速願上ケ可申旨相答候処
承知イタシ
去寅
二月中旬 ラショア嶋出帆 海路凡二里程ニテ ウ
セシリ嶋へ着岸イタシ候所 夥敷鳥類有之候ヲ
食料ニ相貯
夫ヨリ凡七八里程ニテ シムシリ嶋へ渡海
夫ヨリ凡十七八里程ニテ
同年 四月廿四五日頃
マカンルヽ嶋ヘ相渡候所 蝦夷人共 罷在候間
扨ハ ラショア嶋越年中夷人共ノ物語ニテハ
シムシリ嶋ヨリハ ラショア持嶋ノ由
チリホイ嶋ヨリハ ハヱトロフ持嶋ノ由承候間
定テ ヱトロフノ蝦夷人共ト存 早速様子可承存
候処
右ハ 去々年 ヱトロフ嶋へ渡海イタシ
去年帰帆仕候 ラショア嶋ノ者ノ由申聞候間
段々様子承候所
ヱトロフ嶋ニハ 日本人大勢相詰 御役人様方モ
御越年被成候趣 相分リ 一同安心イタシ候所
私共ヲ送リ参候 マキセン其外者共義
是ヨリ先キ嶋々ヘハ難罷越候間
是迄モ召連呉候義故 何卒同船イタシ送呉候様
色々相頼候ヘ共 承知不致
是ヨリ先々ハ 渡リモ近ク 難儀ノ海路モ無之候間
私共斗ニテ罷越候様申聞 海路ノ様子相教 鳥皮
ノ衣服鷲ノ羽ヲキナノ牙 其外 食物相送リ
マカンルヽ嶋ハ流木無数ニ候間
シフンチリホイ嶋へ相渡 小船打立呉 相別申候
夫ヨリ 私共斗ニテ 右打立呉候小船ニ一同乗組
出帆
十五六町程ニテ ヤンケチリポイ嶋へ渡海
夫ヨリ四五里程ニテ ウルッフ嶋へ渡海 西南通
リ船行仕候所
風順無之 同嶋ニ暫ク 滞船
食物ニ差詰リ 山へ登り 草根ヲ掘
或ハ海藻ヲ拾ヒ 食用ニイタシ 漸相凌罷在
同年
六月廿八日 同嶋出帆
凡海上 八九里程ニテ ヱトロフ嶋ノ内 アノイ
ヤヘ着船イタシ候
夫ヨリ 風順無之 日々高波故 同所ニ滞船イタシ
同 七月二日
同所出帆 シベトロ村ヘ着船イタシ候処
御勤番所ヨリ上陸被 御渡候ニ付
一同甦生仕候心地ニテ 上陸イタシ
厚御手当被成下難有 仕合奉存候
於同所 漂着ノ始末 御吟味有之
前書ノ通 具ニ申上候義ニテ
箱館ヘ罷出候様被御渡 御雇船ヘ乗組
当卯
四月十九日
金銀持渡内々 交易等ノ御吟味 右文略之
往来切手 御役所ヨリノ御送状
並 荷主ヨリノ送状 船札等ハ持帰リ
別紙 御武行所へ差出候通ニ御座候
右ノ通 名々相違不申上候
以上
卯
六月三日
岩松
勘右衛門
弥内
吉五郎
専右衛門
継右衛門
御奉行所
継右衛門らが無事帰国して、漂流中の取調べの中で口上や手書きから作成したと思われる千島列島の図面が北海道大学に所蔵されている。附属図書館北方資料室にある「蝦夷諸島新図」と同じく「江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図」がある。
後者の島々の図には、生存した乗組の者達の故郷、下北郡佐井村の豪商能登屋久兵衛が所持していたものを、文化五年に古佐井の宿で写したと添え書きがある。表題をみる限り「嶌々図」の方が古いようであるが、「蝦夷諸島新図」も丁重さにおいて優っているようである。
島々の名を口上によるものと、二つの旧地図と明治以降の松浦武四郎のもの、漁業志稿、大正期の水路誌からその表記のうつりかわりを対照してみた。
生存者として佐井村に無事帰郷を果たしたなかで、最年少だった弥内は、のちに名主に選ばれたという。
稲荷神社に保存されている文化七年の棟札に、その名をとどめている。
「当村名主田仲弥内」文化7年棟札(協力 佐井村・大石健次郎)
「当村名主田仲弥内」文化7年棟札(協力 佐井村・大石健次郎)
蝦夷諸島新圖
南部牛瀧村長年継右衛門文化元年漂流至、十八島凡十三人生還者僅六人。北留一年、在良澤者一年、四年秋興水手千右衛門等製此圖云
蝦夷諸島新図 北海道大学附属図書館所蔵
蝦夷諸島新図 北海道大学附属図書館所蔵
蝦夷諸島新図 北海道大学附属図書館所蔵
江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図
此圖ハ文化元年 南部北郡牛瀧村ゟ江戸表江新鱈為積登船十二人乗、難風ニ逢漂流カムサスカエ漂着有之。内六人卒、残六人同所ゟセムシリ迄被送届、同所ニ而新艘作立、ヱトロップ嶌江着。同四年冬本所江被相返、右船頭持参ヲ写取候由。南部佐井逗留中宿古佐井濱丁能登屋久兵衛取持ヲ写者也 文化五年四月十八日
江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図
江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図
江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図
島々の名