図82.北国船絵馬
寛永七年(一六三〇)に、同姓の茂左衛門とともに重臣の乾と服部の両名に宛てた「敦賀蔵屋敷留守居就任誓詞書状」(同前No.四九三)によれば、太郎左衛門は茂右衛門とともに敦賀にある弘前藩の御蔵屋敷の留守居を勤めていた人物であった。また、この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが京都留守居衆と相談して藩に有利になるよう取り扱う旨を述べている。このことによって、当時の敦賀は、日本海海運の中継地としての重要性を中世以来、依然として維持し続けていたことを示唆していよう。
加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも同文書は伝えている。出羽地方の諸藩と同様に、近世初期から弘前藩の御蔵米の払い方は、主として京都・大津で行われていたのであった(『敦賀市史』史料編 第五巻 一九七九年 敦賀市刊)。
庄司太郎左衛門・茂右衛門の二人は、おそらく敦賀の有力な廻船商人であったと思われる。なぜならば、前述の重臣宛ての書状において、御蔵屋敷の修理などは、自分の費用で行うとし、同藩から扶持を下賜されることを遠慮しているからである。相応の財力を持った商人であったのであろう。このような初期豪商の系譜を引く北陸地方の海商(かいしょう)たちによって、初期海運が維持経営されていたのである。