近世初期海運

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さて西津軽郡深浦町の圓覚寺(えんかくじ)(真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは))は、江戸時代までは深浦の澗口観音(まのくちかんのん)として船乗りの厚い信仰を集めた観音堂であった。深浦澗(ふかうらま)は避難港としてよく利用されたであった。その観音堂に、寛永十年(一六三三)、越前敦賀の庄司(しょうじ)太郎左衛門が奉納した北国船(ほっこくぶね)の絵馬が奉納されており、同寺にある他の絵馬髷額(まげがく)等とともに重要有形民俗文化財に指定されている。施主の庄司太郎左衛門の奉納意図は、おそらく航海中、嵐に遭った際、無事避難できたことへの感謝の気持ちを表わしたものであろう。この絵馬は、近世初期海運の実態を知る上で重要である。北国船とは、近世初期から前期にかけて羽賀瀬(はがせ)船と並んで、日本海海運の主役として活躍した廻船であった。

図82.北国船絵馬

 寛永七年(一六三〇)に、同姓の茂左衛門とともに重臣の乾と服部の両名に宛てた「敦賀蔵屋敷留守居就任誓詞書状」(同前No.四九三)によれば、太郎左衛門は茂右衛門とともに敦賀にある弘前藩の御蔵屋敷留守居を勤めていた人物であった。また、この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが京都留守居衆と相談して藩に有利になるよう取り扱う旨を述べている。このことによって、当時の敦賀は、日本海海運の中継地としての重要性を中世以来、依然として維持し続けていたことを示唆していよう。
 加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも同文書は伝えている。出羽地方の諸藩と同様に、近世初期から弘前藩御蔵米の払い方は、主として京都大津で行われていたのであった(『敦賀市史』史料編 第五巻 一九七九年 敦賀市刊)。
 庄司太郎左衛門・茂右衛門の二人は、おそらく敦賀の有力な廻船商人であったと思われる。なぜならば、前述の重臣宛ての書状において、御蔵屋敷の修理などは、自分の費用で行うとし、同藩から扶持を下賜されることを遠慮しているからである。相応の財力を持った商人であったのであろう。このような初期豪商の系譜を引く北陸地方の海商(かいしょう)たちによって、初期海運が維持経営されていたのである。