刑罰の目的は一般予防(威嚇(いかく))と特別予防の二種類がある。前者は獄門・火罪・磔などの刑罰そのもののほか、これらの重科に付加された引き廻しや、鋸挽(のこびき)・磔などに付加されたさらしおよび鞭刑や入墨(いれずみ)が見懲(みこらし)的意味をもっていた。後者は積極的面と消極的面から考えることができる(石井良助『日本刑事法史』一九八六年 創文社刊)。
積極的面については、第一に旧悪免除の規定が設けられたことで、「公事方御定書」第一八条にあり、当藩でも、これと同じ規定が「文化律」の項目第二六にみえる。旧悪免除とは、今日の言葉でいえば時効に当たり、特別に決められた罪以外は、一年を経過すればこれを旧悪として罰しないというものである。これに該当しないものとしては、逆罪の者、邪曲(じゃきょく)の殺人、火付け、追剥(おいはぎ)、人家に立ち入る盗人、徒党して人家に押し込んだ者、公儀の法に背き死罪以上の刑に処せられるべき者、悪事で永尋(ながたずね)(期間を切らずに犯罪捜査をすること)にされた者などがある。このほか役儀について私欲押領(おうりょう)が度重なる者は軽くても同様に取り扱われた(石井前掲書)。
第二に善意をわきまえる力のない幼年者にも刑罰を科しているが、それは主として、本人の懲戒を目的としたものである(後述「刑事責任能力」の項参照)。第三には赦(しゃ)の制度がある。幕府では古くから行われていたものであるが、幕末の文久二年(一八六二)に「赦律(しゃりつ)」として成文化された。これは改心奨励を目的としたものである(石井前掲書)。津軽弘前藩では成文化されていないが、歴代藩主の法要などに際して行われたことが「国日記」にみえている。
消極面については、第一に重刑主義の刑法典は幕府と同様に津軽領で制定公布されなかったことである。第二に縁坐(えんざ)制が制限されたことが挙げられる。「安永律」制定以前には「国日記」にみえる多数の判例によって、主人のさまざまな犯罪に対する妻子などへの縁坐が行われたことを知ることができるが、その後制定された「安永律」と「文化律」に、主殺し・親殺しの子だけに対する縁坐制がみえる。藩士については、依然として広範囲の縁坐制が適用されていることは幕府法と同じである。連坐(れんざ)の方は、縁坐が制限されたのに対し、必ずしも制限されていない。幕府では刑として、過料・叱・押込(一室内に閉じこめ、門に戸を立て外からの接見・音信を禁じた)の程度であった(石井前掲書)。当藩では過料・叱・鞭刑(軽い)・追放(軽い)などがみられ、刑として比較的軽く、一般予防的効果としては、あまり効き目がなかったようである。