大問屋制の導入

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天保期の流通統制を特徴付けるものとして、「大問屋(おおどいや)」制の導入が挙げられる。天保八年九月二十三日、藩は駒越町紙屋忠兵衛・桶屋町三国屋八三郎・東長町大坂屋福次郎・和徳町猿賀屋小市郎・親方町木野屋善次郎・笠島太平太の五人に弘前大問屋家業を申し付けた。(資料近世2No.一一七)。彼らは「御郡中惣問屋家業御締」という肩書きで、領内のすべての問屋を統括する役目を担わされた。問屋たちは大問屋の指揮に従うこととされ、青森鰺ヶ沢の両浜並びに他のにおいて荷揚げされた品は、弘前大問屋を経由すると規定された(同前No.一二〇)。
 これに伴い、大問屋には関所を出入りする荷の管理の役目も担わされた。荷物は関所の役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋に送るものとされた。大問屋は日々の出入りの状況を確認し、月ごとに町奉行に目録を整えて報告した。この目録は、さらに勘定奉行勘定元方と回覧されたから、大問屋が関所と藩の幹部との間で、交易の確認をする元締めとなったのである。これは藩の御用荷物だけでなく、藩士の「御家中荷物」も管理の対象となった(資料近世2No.一二〇)。
 一方、上方への商品注文も当初は各地域の御用達商人がまとめて行う方針だったが、実態に合わせた取引の必要性や個別の得意先との関係もあることから、これまでどおりめいめい注文することとされた。ただし、到着した荷物は、弘前五里以内は大問屋、五里以遠は各地域の御用達を経由することと定められた。御用達は「上方仕切表」を作らせて注文主に送るとともに、大問屋が取りまとめて、町奉行に報告した。必要量を考え過分の購入はしないこと、相場を調べ大問屋に報告することも規定された。商品荷揚げの手数料(口銭(こうせん))は一件ごとに二歩とされたが、大問屋は一歩を受け取り配下の「下問屋」に分配し、下問屋でもさらに一歩を受け取り、商人たちに渡した。このようにして大問屋御用達―一般商人という統括機ができあがったのである。一方、在・浦ではその地の御用達以外は荷物を扱うことはできなくなり、もし「相対(あいたい)」で商売しているのが発覚した場合には、双方欠所という処分を受けた。