「国日記」延宝六年(一六七八)二月十日条によれば(資料近世2No.二六四)、藩士の御手廻組(おてまわりぐみ)に対し、辻門番・自身番は夜回りを油断なく勤めるように、という命令が出されている。
辻番は主として武家地の道路の交差点や屈折点などいわゆる辻々に、警備のために設けられた番所であるが、津軽弘前藩の辻門番は辻番のことと推定され、その実態は記録がなく不明である。
自身番は、江戸・大坂・京都で町内警備のため設けられた自警制度をいうが、津軽弘前藩でも同じような制度であったと推定され、藩士も勤めていたことが知られる。元禄三年(一六九〇)の「松井四郎兵衛留書」(資料近世1No.一一五〇)によれば、城下に「都合三拾ヶ所」とみえている。
図7.自身番屋・木戸・木戸番屋
木戸は慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、六一ヵ所数えられる。正徳期(一七一一~一六)には四九ヵ所設置されており、立詰めの番人がいるのは二一ヵ所、ほかに小人や雇入れの者を置いた木戸が九ヵ所あって、木戸の維持はすべて町役をもって充当していた(前掲「正徳期町方屋敷割裏書記録」)。
木戸は城下の建設とともに早くから設置されて治安の維持に当たってきたものであろうが、延宝九年(一六八一)の「町人法度」(資料近世1No.七七四)の「道橋の事」の中に一ヵ条だけ次のようにみえている。
木戸は朝夕の開閉に念を入れ、盗人などの情報があれば、すぐ木戸の通過を厳しく検査しなければならない。
もし木戸が破損したならば、規定のとおり修理すべきである。
これが、「国日記」元禄十年四月二十三日条(資料近世2No.二六五)によると、町奉行から町中へ申し渡された二つの覚(おぼえ)があり、一つは木戸番への詳細な勤務心得で、要約すると次のようになる。
○木戸では日が暮れてから提灯を持たない者を通してはならない。ただし、小使や提灯を持たない者でも、規定の札(通行許可証)を持っていれば通行を許可すること。
○負傷者・死人・乱妨(らんぼう)者に対しては、添番(そえばん)が立ち会い通してはならない。ただし、前もって連絡があり、差し支えとなる事情がない者は通行してよろしい。
○馬に乗るか、または大きな物などで潜戸(くぐりど)を通りかねる時は、大木戸を開けて通すように。
二つめの名主宛てに出された覚の中には、自身番・木戸番・添番は油断なく勤務すべきである、特に夜中に提灯を持たずに往来する者を通過させてはならない、という規定がみえている。
このように、木戸には木戸番のほかに木戸番を補佐する役割かと思われる添番もおり、木戸は厳重に管理されていたのである。
その後、「国日記」文化三年(一八〇六)十月八日条には、最近町々の用心があまりよくないと聞いている、それは自身番の夜回りに油断があるからであろう、そのため手木(てぎ)番の者たちは町の小路(こうじ)までもくまなく回るようにせよ、という町奉行宛ての通達がみえているので、自身番が夜回りをしていたことが知られる。
文化期(一八〇四~一八)以降になると、城下の治安がしだいに悪化してきたからであろうか、木戸の忍び通りについての触や禁止についての法令が頻出するようになる。