公娼と私娼

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津軽弘前藩が公娼(こうしょう)(藩より公認された売春婦)の場として認めた地域は、まず陸奥湾側の青森(あおもり)(現青森市)と日本海側の鰺ヶ沢(現西津軽郡鰺ヶ沢町)が挙げられる。ここは、藩の重要な二つの湊で、江戸時代には「両浜(りょうはま)」と称されていた。「諸国遊所見立角力并ニ直段附」(『近世風俗志(三)―原名 守貞漫稿』一九九九年 岩波書店刊)によれば、両湊の遊女の値段が一夜六〇〇文とみえている。

図17.諸国遊所見立角力并ニ直段附

 青森遊廓は元禄十五年(一七〇二)にはすでに存在していたことが知られるが、町名主(まちなぬし)の要望によって、塩町(しおまち)(現青森市青柳二丁目の一部)に設置することが、宝永二年(一七〇五)十月六日に藩から正式に認められた(「国日記」元禄十五年八月二十五日条)。
 鰺ヶ沢については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三湊(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村(しうらむら)〉を経由して、岩木川筋の米を鰺ヶ沢に送る輸送機)が確立してから港の繁栄をみるようになった。遊廓は元禄以前には浜町(はままち)にあったといわれ、元禄十六年(一七〇三)の「鰺ヶ沢絵図」には「新地町(しんちまち)」という町名になっていないが「新地」とあり、遊廓として開かれたという(『鰺ヶ沢町史』第二巻 一九八四年 鰺ヶ沢町刊)。
 そのほかに深浦(ふかうら)(現西津軽郡深浦町)は、「諸国遊所見立角力并ニ直段附」によれば、青森鰺ヶ沢と同じく六〇〇文とある。したがって深浦公娼が認められた地域であるが、関係史料がなくほとんど実態は不明である。
 十三湊は中世では全国の「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数えられるほどであった。しかし、寛文十二年に「十三小廻し」体制が確立してからは、岩木川水運鰺ヶ沢の中継地にすぎなくなった。そのため、この湊はしだいに衰退の道をたどったが、遊廓などがありにぎわったと推定される。現在、公娼私娼(ししょう)(藩の許可なく営業する売春婦)に関する史料が残存せずまったく不明である。
 次に私娼については、両浜遊女が津軽領内の温泉場や弘前城下へ出てきて隠売女(かくればいた)となった場合と、下層町人や貧農の娘が生活困窮や凶作飢饉などにより没落して隠売女になった場合がある。
 城下での隠売女については後述するが、「国日記」によれば、両浜遊女が温泉場へ出てくることは禁止されていたにもかかわらず、大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)や黒石領の温湯(ぬるゆ)(現黒石市)などへ頻繁に稼ぎに出てきていたことが知られる。また温泉場へ徘徊していることが発覚すれば、女を親元へ返し、一両の罰金刑に処し、女のいた町の同業者へも一両の罰金を科すことが藩から命じられている。
 両浜遊女になるには人身売買(じんしんばいばい)によるほか、親が遊女屋へ証文を出して年季奉公の形をとった。しかし、女たちがこのような奉公に耐えきれずに、遊女屋から逃げ出して温泉場で稼ぐ者もあった。