天明七年(一七八七)四月二日から雨天を除いて七日間、住吉宮境内の護穀神において神事能が行われた。護穀神は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から寺社奉行によって移され、領内五穀成就を祈る祈祷所であった。また天明の大飢饉の時には能役者から五穀成就のための神事能を願い出た。見物人へ手印を配って寄進を受け、経費に充てるというものであった(同前天明七年三月六日・四月二日条)。初日は、能が翁・高砂・田村・羽衣・羅生門・金札、狂言が末広狩・昆布売・千鳥・伯母ヶ酒で、見物人が二八〇〇人あり、二日目が三〇〇〇人、ほかは平均二〇〇〇人とあるので、七日間で約一万五八〇〇人の参詣人が集まったことになる(「津軽徧覧日記」)。
能役者は、延宝八年(一六八〇)から用人の支配下となり、諸経費は楽屋奉行・能役者双方より出されていたが、寛政十二年(一八〇〇)から楽屋奉行を通して願い出ることになった(『御用格』)。『奥富士物語』には多くの能役者・地謡・囃方の名前が挙げられており、信政が能太夫に日吉権太夫を召し抱える前は側役久留瀧右衛門が太夫代わりを勤めていた。
正徳元年(一七一一)の「町支配分限帳」(長谷川成一編『弘前城下史料』上 一九八六年 北方新社刊)には、地謡と役者取次として藤岡五兵衛の名前があり、能役者として三七人が記されている。その中には仕手連(してつれ)・脇師・脇連・地謡・小鼓打ち・太鼓打ち・狂言師・装束着せ・髪結いがいて、藩主が国元にいる時は扶持米がおおむね一五俵、江戸にいる時は一〇俵と差があった。
稽古は城内三之丸の屋敷で一ヵ月に四回あるほか、役者長屋の能舞台でも行われた(『御用格』)。『奥富士物語』によれば、稽古所が本町五丁目にあり、囃方の掛け声が相良町(さがらちょう)・在府町(ざいふちょう)まで聞こえたという。享和二年(一八〇二)には、楽屋で用いる熨斗目・小袖・上下には丸に桔梗紋を使用し、往来で小袖を着ることが禁止された(『御用格』)。宝暦四年(一七五四)には地謡の町役が免除され(同前)、天明五年(一七八五)には茂森町に屋敷を持つ西岡伝之助が町役は免除されているが、地子銀を納めている例がみえる(同前)。
寛政三年(一七九一)、野添織三郎の倅蔵之助が稽古のため江戸へ向かう時、路銀・馬銀は藩より支給されたが、仕度金は認められなかった。蔵之助は江戸藩邸の長屋に住んで稽古に通ったが、師匠への最初の届金だけは藩より支給された。笹田四郎三の場合は、安永八年(一七七九)の「藤戸」伝授の時、礼金二両二歩が支給された。このように、伝授の度に各能役者から礼金を求められるので、寛政十年(一七九八)からは自分で費用を負担するのは自由であるが、藩からの支給は願い出て許可されたものだけになった(同前)。
『奥富士物語』によれば、藩主家には、銘「青山」の琵琶、小野小町の箏、近衛公の名づけた「新嘉丁」の笛、聖徳太子作の龍王の面・元利作の悪尉代の面、孫次郎作の白玉の面など能面二八七面、豊臣秀吉の能衣装が所蔵されていたという。
藩主が正月や慶事の際に能を催し、藩士から町人まで見物させ、料理・菓子を出すことは、君主の仁政の一つとしてみるべきであろう。また、来客の接待の中心にもなっているほか、藩主家の人々や自らの慰みとして楽しむものでもあった。能役者が神事能を奉納して五穀成就を願うことは、藩より扶持米を与えられる者の役割の一部と考えていたものとみられる。