二等銃隊の補充と特質

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さて、こうして創出された二等銃隊は、どのように藩の軍事力に組み込まれていったのであろうか。その具体的人数と内訳・出自を三期に分けてみたものが図55であるが、(第1期)の明治元年五月七日~八月五日とは二等銃隊の発足から第二次討庄援兵期までを、(第2期)の明治元年八月六日~十月十八日とは盛岡藩との戦闘が激化し、九月二十三日の野辺地戦争から東北戦争の終結までを、(第3期)の明治元年十月十九日~明治二年六月十二日とは榎本武揚(えのもとたけあき)による箱館奪取から翌年の箱館戦争終了期までを指す。

図55.二等銃隊分析表(明治元年9月7日,三等銃隊と改称)

 図55をみてまず第一に気づく点は、時期が下るにつれて補充される二等銃隊員の数が減少していることである。第1期を一〇〇パーセントとすると第2期では四二・九パーセント、第3期では二四・一パーセントしか兵員は補充されていない。そしてこれは何も二等銃隊以外の戦力が生み出されたわけではなく、また、御手廻・御馬廻組等、従来からある番方本役が戦場に投入されたわけでもなく、単に兵員補充が先細りになっていっただけの結果である。しかも、よくみれば時期ごとに軍制二等銃隊も異なった様相を示している。
 まず第1期であるが、この時期は後項で詳しく述べるように、藩論の統一をめぐって激論が戦わされた後、七月上旬にようやく勤皇に政治的立場が確認され、奥羽鎮撫総督府の庄内討伐援兵命令に従って続々と藩兵が出陣していった時期である。こうした情勢を考慮して図55の第1期をみると、まず、人数的に多いのは番方次、三男層の一三八人、役方長男の一一九人、小普請(こぶしん)(御留守居組御目見得以下支配や無役・寄合(よりあい)などの役職)・足軽層長男の九八人、同次、三男層の八四人、同当主の六二人などが挙げられる。特に番方次、三男層の数が多いのは、やはり平時の武芸奨励においてもその浸透度は番方に顕著(けんちょ)であり、次、三男といえどもかなり武芸熟達(じゅくたつ)の者がいたからである。また、役方長男でも一〇〇人を越す人員が銃隊に組織されているのは、彼らの親(当主)はすでに兵站(へいたん)部に大量に取り込まれていたからである。次に組織化が容易だったのは、番方長男が広く動員されている一方で、月に玄米二斗を支給する必要がなく、いまだに明確な出番がなかった役方長男だったからである。
 さらに、第1期では小普請足軽層が当主から次、三男層に至るまでまんべんなく取り入れられていることがわかる。ことに長男、次、三男層は第2期・第3期では激減していることから、おおかたこの第1期に小普請足軽層の銃隊編成は完了したといえるであろう。ただし、この階層は家臣団中最多であったが、当主・長男はすでに足軽銃隊・大砲隊として戦力化されており、その他にも弾薬方や小荷駄方(こにだかた)にも大量に使われ、二等銃隊に組織するほどの余裕はもはやなかった。たとえ、銃隊に編成してもこの階層は微禄(びろく)の者がほとんどだったため、出動中の留守家族から、当主が不在のうえ、子弟までも駆り出され、日常生活の万事に不都合で家内難儀(なんぎ)だとの苦情が頻繁(ひんぱん)に出されており(前掲「御軍政御用留」明治元年九月十四日条など)、経済的理由からも大規模な銃隊化と動員は困難であった。加えて、藩の側でもこの階層を兵員素材とするにはためらいがあった。小普請足軽といえば藩士・藩とはいえ最下層の者であり、ましてやその子弟は武士としての心えに疑問をさしはさまれていた。戦場で逃げまどうなど、見苦しい事態になれば他藩のあなどりを受けるだけでなく、軍事組織そのものにも大きな打撃を与えかねない。よって藩は在陣中は決して武士としての心えを失わないように、支配頭より厳重に注意するよう指令を出している(同前明治元年七月十七日条)。二等銃隊は従来にない軍事力だったため、初期にはこのような心配もされたのである。