醍醐忠敬の弘前転陣

245 ~ 248 / 767ページ
東北戊辰戦争が激化する中で、戦火の領地内への拡大はがぜん現実味を帯びてきた。藩が方向を定め、列藩同盟と決裂して、八月から九月にかけて激しい戦闘が繰り広げられた以上、弘前本城に敵兵が迫ることは容易に想像できる状況にあった。
 そこで、弘前藩は、この時期新たな兵員編成を進めた。まず、本城守衛のため、それまで一等銃隊として藩主の親衛隊に位置づけられていた旧御手廻・御馬廻組は、八月三十日にそれぞれ御書院番銃隊表御書院番銃隊とされ、全員が銃隊員に組織されるとともに、最終局面まで藩主を守衛するため、設置される部隊とされた。そして、そこに恒常的な徴が可能になるように、御手廻・御馬廻両組に入るべき家格の子弟は、十七歳以上になれば自動的に一等予備銃隊という部隊に編入されることとなった。そして、これまでの戦局で最激戦地に身を置いた二等銃隊は、御書院番銃隊表御書院番銃隊に続く三等銃隊とされ、その後の戦局でも過酷な戦闘に従事させられた。その他、御中小姓や与力組・御留守居組などの当主や子弟も、幅広く戦力として前線に送り込まれたのである。
 こうして、領内全体が戦争に巻き込まれるかたちとなり、弘前藩は藩力の限界以上まで力を尽くして「勤皇」を証明しなければならなかった。
 秋田藩はいち早く勤皇を表明し、奥羽鎮撫総督府を迎え入れたが、盛岡藩は弘前藩と同様に同盟に参加し、藩の行く末を模索していた。結局、さまざまな経緯の末、盛岡藩は列藩同盟を貫くことを決意したのであった。その盛岡藩から八月八日、弘前藩へ使者がやってきて秋田藩攻撃のための領内通行を求めてきた。なかなか両者の勝敗が確定しない中で、盛岡藩は弘前口より秋田領へ一挙に討ち入る作戦を立て、弘前藩に同盟側への復帰と協力を要請したのであった。この打診に対して、弘前藩の同盟脱退は熟考のうえのことであり、勤皇と藩論が統一された以上、同盟諸藩からの「厳譴(げんせき)」は覚悟のうえだと返答した。結局、弘前藩と盛岡藩はここで敵対関係となったことが明確になり、「次は戦場で相まみえよう」ということになった(『弘前藩記事』一)。続いて八月十二日には、藩主自筆により、盛岡藩との関係がさらに緊迫したものとなったことを告げ、一層の結と忠節を求めたのであった。この布告にあるように、既に藩論が定まった以上は、全力を挙げてその道を貫くことしか藩の存続を図る道はなかったのである。
 さらに、八月十四日、藩から次のような知らせが家中へ出された。
  御家中江被仰付候覚
去ル十日、九條殿、秋田表出役御呼出ニ付罷出候処、南藩、秋田十二所表江兵隊繰込発炮致候ニ付征討被仰付候、及醍醐殿御出馬御国表江御転陣之旨申来候、
  八月十四日
(弘前八幡宮古文書「公私留記」明治元年八月十四日条 弘前大学附属図書館蔵)

 つまり、十日に九条奥羽鎮撫総督からの招集に応じ、行ってみたところ、盛岡藩が秋田十二所へ侵入・発砲したことについての罪状をもって、弘前藩へ盛岡藩征討を命じるという内容であった。さらに、盛岡藩征討のために醍醐忠敬参謀が弘前藩へ転陣する旨が伝えられた(同前)。これによって、再び弘前藩へ菊花章旗がもたらされることになった。菊章旗はいうまでもなく、官軍の象徴である。また十二日には、館山善左衛門が総督府から参謀添役を任じられ、臨時の場合の指揮を任せられたばかりでなく、作戦などについても委任されることになった。
 醍醐総督府参謀の本陣は最勝院境内に置かれ、また、八幡宮神楽殿も休息所として使われることに決まった。この間、最勝院の社務は大善院で執行されることになった。最勝院は、四月に一等銃隊の操練場所の補充地として充てられた寺院境内の一つであった。
 醍醐一行は八月十七日に弘前入りをし、盛岡藩征討に関して軍事的中心の役割を担う。彼らの弘前布陣は弘前藩とは逆に、反官軍を表明した盛岡藩との戦争を目的とするものであった。到着当日は藩主が出迎え、在陣中は、道普請や飾り付けに至るまで、また、醍醐一行の動向や警衛に細心の注意が払われており、その徹底ぶりは前代未聞の至りであった(弘前八幡宮古文書「公私留記」明治元年八月条)という。醍醐参謀の滞在する弘前藩はもはや官軍方に一寸の疑いも持たれてはならず、こうした扱いはその具象化であるといえよう。また戦争下の混乱に乗じて多数の人々が領内に入り込んでいたため、さらに取り締まりは強化されていた。
 藩論が決定した今、九条奥羽鎮撫総督の弘前転陣とその存在は、弘前城下にある人々にも少なからず影響をもたらし、人々へ新政府の下にある弘前藩という体制を印象づけたといえよう。