以上のような藩内の知的状況に加えて、総司津軽永孚が荻生徂徠やその高弟太宰春台の学説を信奉していたことが、稽古館の学風に徂徠学的特色を際だたせることになった。春台はその著述「孟子論」で、本来経世済民の学であった儒学が、後に宋学のように心法の学として矮小化(わいしょうか)されていった元凶は孟子にあるとして、孟子を激烈に糾弾している。永孚はこの春台の学説に共鳴し、孟子は稽古館では当初教科書に採用されることはなかった。しかし稽古館では徂徠学一色だったというわけではなく、小司の竹内衛士が永孚に対して忌憚(きたん)なく反対の意見を表明している。そしてさらに彼は、にわかに「古ノ曲礼教儀」を「国俗」に施そうとするのは、一見美事(みごと)のようにみえるが、それは「新奇」を好むものであり、強いて「変革」せんとするのは混乱の基であると断じて、徂徠流の中国に倣った「礼」制度と「国俗」との乖離を問題にしている。
図167.荻生徂徠肖像
稽古館で中心的役割を果たしていた津軽永孚が、寛政十一年(一七九九)六月に失脚すると、彼の影響力は薄れ、間もなく徂徠学から朱子学(宋学)へと学問所の学風に変化が生じてくる。寛政十二年、学校総司取扱となった伴才助建尹が学風を朱子学に改めることを進言しており、文化六年(一八〇九)には、聖堂に留学して朱子学を修めた葛西善太が江戸で国元の学風改めの命を受け(「国日記」文化六年十月七日条)、翌文化七年一月十六日、学問所の学風を宋学に改める旨の触れが出された(資料近世2No.三〇八)。これと前後して文化六年から林家塾頭佐藤捨蔵(一斎)が江戸の上屋敷で論語を講義し、藩邸に出入りするようになった(「江戸日記」文化六年十二月十二日条)。かくして林家との関係が深まり、文化六年二月に相坂恒太郎が江戸勤学を命じられて林大学頭に入門し、続いて文化八年三月には釜萢太一、葛西健司が佐藤一斎に入門して聖堂に入寮し、文化十年八月には黒滝藤太、七戸貢八郎が林家に入門した。また長崎慶助も佐藤一斎について学んでいる。聖堂で学んできた彼らが帰藩し、学問所の次世代の教官になっていった。