最勝院

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最勝院(さいしょういん)は、天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が神宮寺別当を兼帯させ寺領五〇〇石を寄進した(「津軽一統志」)。寺伝によれば、為信が高野山無量寿院の宥観を第四世に招いたことから智積院の末寺となった。しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)には「本寺高野山心南院」とあり、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)には「勧修寺宮院室密乗院兼金剛山光明寺最勝院」とみえる。のち賀田村へ移り、慶長十七年(一六一二)、弘前城下形成に伴い八幡宮(現弘前八幡宮)別当となり、寺領三〇〇石の寄進を受けた。塔頭は一二院あり、大善院に三〇石、宝成院普門院徳恩寺吉祥院龍蔵院歓喜院・西善院・東覚院正覚院教応院神徳院に各一五石の寄進があった。
 最勝院社家頭小野若狭長利薩摩を通じて領内の神職大半を支配し、心応院を通じて修験のほとんどを支配するという絶大な権力を握っていた。
 享和三年の「寺社領分限帳」によれば、本堂には八幡宮本地仏として、信枚寄進の阿弥陀仏、信重寄進の勢至・観音の木像三体が安置され、信義寄進の閻浮檀金(えんぶだんごん)弥陀尊は三重の厨子に納められていた。正徳四年(一七一四)の火災の際、阿弥陀仏・閻浮檀金弥陀尊は焼けずに残った。享保九年(一七二四)の開帳に、この閻浮檀金弥陀尊が出されたが、偽物であったという(『平山日記』)。
 明治の神仏分離により、八幡宮別当を免じられ、堂塔は破壊され、同五年(一八七二)に大円寺跡へ移った。この時、塔頭一二院のうち大善院は大円寺跡へ移ったが、残りの子院は寺禄廃止に伴い廃院となった。