神職は自らを吉田家からの「公儀御条目」にある「文武士」と認識しており、国家を守護する役務から藩は名字・帯刀を許し、藩士同様の扱いをしていた。そのため明治になって神職が士族に含まれる下地(したじ)は、この時からあったといえよう。そのため、社家の養子縁組や、婚姻は社家間で行われることが多かった。
また、社家・修験・浄土真宗は家族に次、三男という男性を抱えているため、これらに対し慶応元年(一八六五)、藩は軍制改革の進む中で武芸稽古を命じた。明治二年(一八六九)社家隊は深浦、修験隊は赤石方面へ出陣し、同三年士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵された。社家の中の女性で、神職のことを学び「神子(かみこ)」になるものもいた。正徳五年(一七一五)、古懸不動尊の出汗に当たり、八幡宮神主が、町馬一五匹を用意させ下社家と神子を含めた一五人で神楽を奉納した。社家の中での神子は、神事を行う時に欠かせない存在であった。
津軽領では神職が「霞」と呼ぶ信仰圏を持ち、修験者には霞がなかった。このため、宝暦年間(一七五一~六三)においても、火防・地祭の神事で神職と大行院配下の修験者との抗争が続いた。祈祷に関する施主の奪い合いは、依頼側の施主の信仰によって決まることであり、社家頭は関知しないことにした。
八幡宮・熊野宮の下社家は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六社家ずつ神主の支配を受けた。その任務は所属する神社の毎月の神事、臨時の神事、古懸不動尊出汗の神事のほか、夜間の当番、雪片付け、雪下ろしであった。凶作で救米が認められなかった時は、弘前町内へ獅子舞を出し、火難消除、諸病追放の祈祷札を配布した。凶作による社会不安を取り除く祈祷札の配布は、下社家の家計負担の救済のためであった。