慶長期の寺院建築として、革秀寺(かくしゅうじ)の本堂、長勝寺の本堂・庫裏(くり)が挙げられる。ともに曹洞宗(そうとうしゅう)寺院であり、津軽家の菩提寺や為信の菩提寺であったりと、津軽家との関係も深いものがあるが、これらの寺院には、いずれも当初の棟札は保存されていない。
『県重宝 革秀寺保存修理工事報告書』(一九九二年)に詳しく述べられているように、革秀寺の本堂は慶長十三年(一六〇八)に着工され、同十四年(一六〇九)に完成したが同年に焼失し、現本堂は慶長十五年(一六一〇)の再建とされている。内部の正面一間を土間として一間(一・八二メートル)幅の広縁を取り、その扉や欄間(らんま)や指物(さしもの)の木鼻(きばな)などの彫刻は当時の様式をそのままに表現したもので優れている。間仕切りの鴨居(かもい)には付樋端(つけひばた)が打たれ、入母屋造(いりもやづくり)の茅葺(かやぶき)屋根であり、壮大な本堂である。
図234.革秀寺本堂
長勝寺については、本堂も庫裏も、年代を示す調査結果は得られていない。ただし、間取りや構造形式からすると古いことはたしかで、この本堂は全国的にも最古の部類に属するものとみられるが、今のところは、慶長年間(一五九六~一六一四)後半の築造と判断されている。規模が大きくて、側廻(かわまわ)りには三本溝(さんぼんみぞ)の窓を配しており、当初は庫裏や革秀寺と同様の茅葺屋根であったという。
「庫裏」についても同様で、大浦城の台所を移したものであると伝えられているが、柱の太さや風食の度合い、痕跡の調査などからすると、古い柱材や梁材(はりざい)などを使用しながらこの場所で新たに別の建築物として建築されたものとみることができそうである。今後の修理工事に期待するところが大きい。
市内の古い神社として弘前八幡宮の本殿がある。これは慶長十七年(一六一二)に完成したと伝えられるが、棟札や墨書(ぼくしょ)は発見されていない。蟇股(かえるまた)や手挟(たばさみ)や虹梁(こうりょう)の木鼻などは、ほぼこの時期のものとして誤りはない。しかし本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)といいながら、縁が四方に廻っており、脇障子(わきしょうじ)が途中で止まっていることや、向拝(こうはい)の組物のみが極彩色で塗られていることからすると、地方に古くから入っていた技術によるものかともみられる。
熊野奥照(おくてる)神社の本殿が、慶長十八年(一六一三)に再建されたものであることは、残されている棟札からわかる。さらに慶長二十年(一六一五)には樋の口(ひのくち)の熊野神社の本殿が造られていることが棟札によって知られる。門外(かどけ)の熊野神社とともに熊野三所権現(さんしょごんげん)として造られて、奥照神社を本宮(ほんぐう)として門外を新宮(しんぐう)とし、樋の口を那智宮(なちぐう)としていたようである。ここにみた二つの熊野神社では、ともに地方色がなく、一世代古い形式が用いられていることなどが認められる。
奥照神社の本殿ではその構造形式によって古さが感じられ、樋の口の熊野神社の本殿は向拝を一間につくり、頭貫型虹梁(かしらぬきがたこうりょう)を欠いて象鼻(ぞうばな)と連三斗(つれみつど)とで受ける形にしているなど、いずれも古い形式をとどめている箇所が目に付く。また、これら二つの熊野神社における棟札が、よく似た字体で書かれており、大工棟梁や鍛冶職なども同じ系統の人たちではなかっただろうか。
革秀寺境内にある津軽為信霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期とする」という見解(『重要文化財 津軽為信霊屋修理工事報告書』一九七六年)を支持したい。