日健(にちごん)は京都深草の宝塔寺にあって、草書に秀で、兵法を講義して名声を博していた。天正年間(一五七三~九一)、為信は京都にあってこれを聞き、一寺建立を約して日健を津軽へ招いた。一時期、法立寺にあって信建や家老の子弟に草書と武術を教えた。慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦に出陣中、板垣兵部らが堀越城で反乱を起こしたのを、日健が和睦をもちかけて城の囲みを解かせ、事なきをえたという(資料近世2No.四一〇)。岌禎(きゅうてい)も修学に優れ、才智を見込まれて京都から津軽へ下った。信枚の子には平蔵(信義)と名付けている。津軽建広へ嫁した娘が死去すると、大光寺に供養塔を建立し、岌禎は供養の法要を行った。実父守信の正室が死去すると葬式の導師となり、戒名の桂屋貞昌大禅定尼をとって貞昌寺とした。さらに隠居のため誓願寺を創建し、開山となった(同前No.四〇八)。
図242.大光寺三重塔跡
為信は、元亀元年(一五七〇)、最上義光(もがみよしあき)への対面の途中羽黒山へ参詣し、同山の延命院を津軽寺と称させた(「津軽一統志」)。この後、延命院はたびたび津軽を訪れ、藩へ冥加金を頼んでいるのが『御用格』(寛政本)にみえる。また、為信は最勝院眼尊に勧められて勝軍地蔵を信仰し、慶長七年(一六〇二)京都の愛宕山を浅瀬石(現黒石市)に勧請した。このように為信の信仰は、津軽惣鎮守の岩木山三所大権現であり、格翁に導かれた曹洞宗であった。