為信

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初代為信の出生に当たり、実父武田守信が男子を望み岩木山に祈願したところ、夢に岩木山の神が白髪の老人となって現れ、手手にした日の丸の扇を与えてこれを子とするようにと言われたことから、幼名を扇と名付けたという話が伝わる(『記類』)。また、ある時の夢に曼字(まんじ)・錫杖(しゃくじょう)と名のる岩木大権現の使者が現れたことから、旗の紋に卍字、馬印に錫杖いて領内を統一したという(「津軽一統志」)。岩木山は古くから領民の信仰を集めてきたので、夢の話として自分との関係を説明し、下居宮の再興に尽くした。岩木山信仰を領民に示すことは、統一を志す者にとって欠かすことのできないことであった。為信は長勝寺八世格翁(かくおう)について禅を学んだ。格翁は勅特賜の禅師号、義鑑増輝禅師を受け、通幻開山の丹波の永沢(ようたく)寺に招請されるほど傑出した僧であった。格翁は為信に、唐の普化禅師に関する「普化鈴鐸(ふけれいたく)」をもって教えを示し、為信も崇敬の心をもって接したという。為信が京都で死去すると、遺言により四条河原で火葬にされ、遺骨は津軽へ運ばれた。信枚は葬式の導師に格翁を頼み、廟所革秀寺を建立して開山に推した(資料近世2No.四一四)。
 日健(にちごん)は京都深草の宝塔寺にあって、草書に秀で、兵法を講義して名声を博していた。天正年間(一五七三~九一)、為信は京都にあってこれを聞き、一寺建立を約して日健を津軽へ招いた。一時期、法立寺にあって信建や家老の子弟に草書と武術を教えた。慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦に出陣中、板垣兵部らが堀越城で反乱を起こしたのを、日健が和睦をもちかけて城の囲みを解かせ、事なきをえたという(資料近世2No.四一〇)。岌禎(きゅうてい)も修学に優れ、才智を見込まれて京都から津軽へ下った。信枚の子には平蔵(信義)と名付けている。津軽建広へ嫁した娘が死去すると、大光寺に供養塔を建立し、岌禎は供養の法要を行った。実父守信の正室が死去すると葬式の導師となり、戒名の桂屋貞昌大禅定尼をとって貞昌寺とした。さらに隠居のため誓願寺を創建し、開山となった(同前No.四〇八)。

図242.大光寺三重塔跡

 為信は、元亀元年(一五七〇)、最上義光(もがみよしあき)への対面の途中羽黒山へ参詣し、同山の延命院津軽寺と称させた(「津軽一統志」)。この後、延命院はたびたび津軽を訪れ、藩へ冥加金を頼んでいるのが『御用格』(寛政本)にみえる。また、為信は最勝院眼尊に勧められて勝軍地蔵を信仰し、慶長七年(一六〇二)京都の愛宕山を浅瀬石(現黒石市)に勧請した。このように為信の信仰は、津軽惣鎮守の岩木山三所大権現であり、格翁に導かれた曹洞宗であった。