戦時生活の諸側面

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戦争が本格化するまでの弘前は映画演劇音楽など、都市文化が展開し文化的生活が華やかだった。だが日中戦争期以降は戦時色や経済統制の様相が強まり、太平洋戦争が勃発してからは勤労動員も強化されたした。しだいに「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ」に代表されるような世相が濃厚となった。資源に乏しい日本の現状は弘前市でも同じだった。そのため各地で自給自足的な活動が展開されている。市当局でもさまざまな対応が練られた。護国神社の参道建設で切り倒された路上の雑木を利用し、弘前公園で製炭を実施しようとしたり、弘前営林署から原木を払い下げしてもらい、市営で製炭を試みるなど、涙ぐましい努力がなされていた。
 枯渇していたのはエネルギー資源だけではない。もっとも不足していた食糧の増産に対しても、市当局は知恵を絞らざるを得なかった。農家からの食糧供出はいうまでもないが、食糧増産のための農事試験や耕地改良、自作農創設など、農業の根本的な制度改正も講じられた。しかし弘前市自体は中心部が市街地であり耕作地は少ない。それだけでなく軍都弘前の中心部は、なんといっても第八師団のお膝元であり、数多くの軍事施設を抱え、農業耕作地は限られたものだった。そこで市当局が講じたのが、弘前公園の活用だった。昭和十九年四月十日、市長室で公園委員、国民学校長の連合協議会が開催され、公園内の畑化か決定した。ところが実際に調査を開始すると、もっとも期待されていた旧本丸部分は畑地に不適当と判定された。旧藩主の屋敷が設けられてあった関係から、地下に敷石が張りつめられ、付近一帯も砂礫を敷き詰めてあった。急速に畑に仕立てることは困難で、増産にはならないと判断されたのである。
 昭和期のりんごは海外輸出も激増するなど隆盛期だった。しかし太平洋戦争勃発前後からは統制経済に組み込まれ、配給市場のなかで生産を抑制された。また元来が西洋りんごであり、その名称も英語だったため、敵国の言葉として忌避されることになった。いわゆる「鬼畜米英」思想が、りんごにも反映したのである。りんごの英語名廃止運動を主唱したのは、『東奥日報』だった。県農会や翼賛会県支部の後援を得て、県知事を委員長とする委員会を設け、県民からりんごの和名を募集している。その結果、デリシャスが陽玉、ゴールデン・デリシャスが黄冠、スターキングが太陽など、全一四種類のりんごの和名が決定している。

写真31 りんごの英語名廃止を掲げる『東奥日報

 けれども弘前市民が戦時体制のなかで、生活の楽しみや生きる喜びを失っていたわけではない。毎年開催される観桜会やねぷたを楽しむ人々は数多くいたし、「贅沢は敵だ」と言われながらも、土手町の角は宮川デパートでショッピングする人もたくさんいた。もちろん観桜会を楽しむといっても、護国神社に武運長久を祈る参拝者もいたなかでのことである。戦争以前の大盛況ぶりは影を潜め、子供連れの家族が弁当持参で花見を楽しむような光景だった。
 ねぷたは日中戦争勃発の昭和十二年から、前線将兵の労苦を偲(しの)び、盆踊りとともに中止となっていた。しかしすべて中止になったわけではなく、子供たちが担ぎ踊る扇灯籠や金魚ねぷたは大目に見られ、ねぷた自体の伝統はわずかに守られている。市民は毎年ねぷたを心待ちにしており、その伝統が廃れてしまうことを悲しんだ。そのためか、昭和十九年の八月には八年ぶりにねぷたが運行された。ねぷた自体は護国の英霊を慰めるため、奉納ねぷたとして八月五日は各町内から繰り出し、護国神社で奉納式を行って解散となった。六日は各町内から出て市内を運行し、陸軍病院で傷痍軍人を慰問している。ねぷたも文化報国会の統制下に入り、軍人援護政策の一環に組み込まれていた。それでも人々は決戦体制の下でつかの間の楽しみを味わったのである。
 昭和十三年二月二十一日、弘前放送局が開局し、ラジオの音が以前より格段とよくなったことに市民は驚喜した。放送局の開局に対しては、昭和十一年の八月二十日に弘前市長と市会議長、商工会議所会頭、津軽一市四郡将校連合会長の連名で陳情書を逓信当局に提示した経緯がある。ラジオはすでに満州事変前後には、新聞と並ぶメディアとして台頭しつつあった。しかし弘前市周辺では第八師団を抱える軍都でありながら、ラジオ中継地がなく放送の音声もよくなかった。そこで、青森県下でもラジオ中継地として放送局を設置する要望が強く上がり、候補地として弘前が選ばれたのである。設置の理由に軍事的要因が強くはたらいたのはいうまでもないだろう。

写真32 弘前放送局(馬喰町)