ビューア該当ページ

(八五)津田宗及

123 ~ 126 / 897ページ
 津田宗及は宗達の男、通稱を助五郞といひ、【江月の父】大德寺第五十六世江月宗玩の父である。茶湯を父に學び、今井宗久等と其名を同じうした。亦武技、蹴鞠の道にも達した。(茶事談、茶人系傳全集、龍光院文書)【參禪】大林宗套に參禪して、天信の道號を授與せられ幽更齋天信と號した。(泉州龍山二師遺藁豐臣秀吉に仕へて三千石を領し、法眼和尚位に敍せられた。【大通庵創建】大通庵を堺に創建して父の菩提所とし、春屋宗園を請して開祖とした。(茶人系傳全集)庵の遺址は今熊野町東六丁にある。世に受世法眼と稱するのは、此人である。(茶人系傳全集)家に多數の名器を襲藏し、織田信長堺の名器を展觀したとき、宗及所有の菓子繪は其撰に入つた。天正十三年北野大茶會の際には宗及祕藏の茶器第三位を占めた。(堺鑑下)【爪紅臺子】世に爪紅と稱する臺子は、宗及の創製したものである。(數寄者名匠集)天正十九年四月二十日卒去した。法號を法眼受世宗及居士といふ。(法眼受世宗及居士墓表)大通庵址に其墓碑がある。

第二十九圖版 津田宗及書狀

 
 
 宗及、秀吉の伽衆を勤め、特に寵遇を蒙つた。曾て宗及が細川三齋と利休とを茶會に招くことを約した。期日の宵から雪となり、夜に入つては踏石も埋もるるばかりとなつた。利休は三齋に向つて、かゝる時には早く參會すべきものとて、夜を侵し三齋を促して之に赴いた。宗及も豫て用意をして、露地の戸を半ばあけ、燈籠の火影が幽に見える、露地へ入ると、案内を乞ふとひとしく、迎へに出でゝ茶席に請した。床には不破の香爐を飾り、雪中のことゝて格別寒からう、お手をお暖めなされよといふ。利休挨拶して香爐をおろし、香を聽き、之を三齋へまはし、香名を尋ぬると、月と答へた。利休も亦香を取出し、それを焚いて居る。暫くして水屋の中門を敲くものがある。誰かと問ふと、水を參らする者といふ。此時宗及は釜を揚げ、勝手へ入り、湯を更へて濡釜をかけた。此雪中の作意、雪を水に換へたことは、【宗及一世の出來茶の湯】宗及一世の出來茶湯と、利休は每に之を賞讚した。三齋が利休に、此茶湯少しも瑕はないかと問ふたら、利休は難をいはゞ、香に月を焚くことは、月と雪との緣少しく風情に過ぎたるかと、批評したといふ。(茶人言行錄)【宗及傳來の天目國寶となる】宗及傳來の油滴天目茶碗は、今國寶に編入せられてゐる。
 【當時の茶人】屢々宗及の茶會に出席してゐる堺の茶人に、野遠屋油屋常言春慶慈光寺永賢坊、永福寺條阿、驢庵(半井)(市町)宗榮、(市町)宗順、宗洙(半井)醫師宗玻、錢屋宗仲、長慶寺祐藏主、禪通寺祐藏主、薩摩屋宗忻、長慶寺語藏主、禪通寺秀首座、(四條)覺阿、南宗寺團首座、圓璡(竹田)、竹野新五郞入道宗九、(材木町)林砂、大安寺退藏軒、高三隆世、(南宗)宗德、(今市)紹通、同良向、(天神)舜盛、(柳町)隆意、谷宗齊、(海船)宗把、光明院等玻、譽田屋由也、(市小路)宗春、油屋紹可、(市町)宗惠、永福寺珠阿彌、光明院康司、重宗圓、(湯屋町)德林、同常益、北向道味、(天神)春盛、重助九郞、鹽屋次兵衞、木屋次兵衞、萬代屋彌三、同帶刀、木屋宗雪、薩摩屋宗椿萬代屋了二、譽田屋道作、錢屋宗仙、奈良屋道滴、樋口屋道閑、高石屋宗兵衞、酢屋良喜、松江宗過、萬代屋新太郞、石津屋宗陽、金田屋宗入、高石屋卜意、石津屋良精、竹倉屋紹有、住吉屋宗((湛))湍等がある。(津田宗及茶湯日記)