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(五四)澤庵宗彭

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 宗彭字は澤庵春翁、冥之、東海暮翁無名氏又玄等の數號がある。【父母】父は但馬の領主山名宗詮の家臣秋庭能登守綱典(雲峯以閑居士)、母枚田氏(妙清)天正元年十二月但馬の出石に生れた。七歳の時父之を伴ふて宗鏡寺に到り、塔頭正受院の周嶽西堂に兒十歳に至らば、出家得度せしめんことを約したが、故あつて淨土宗唱念寺の衆譽に近侍し、名を春翁と稱した。既にして十四歳更らに宗鏡の勝福禪寺に入り、剃髮して秀喜と稱し、圓覺寺の珍庭秀寶の法嗣、希先秀先に就いて經典を學んだ。【三玄院駐錫】同十九年正月師の示寂により、澤庵文祿元年偶々來化した大德寺の董甫紹中に參禪し、三年紹中の歸洛に隨ひ、大德寺三玄院に入り、更らに春屋宗園に參禪し、諱を宗彭と改めた。然も貧窮其極に達し、朝夕の資に乏しく、參禪の餘暇には、筆耕に從事して資を補ひ、傍ら山内の諸老師に就いて法要を質した。
 【堺の文西に學ぶ】慶長六年始めて堺に來り、當時建仁寺派の耆宿で文墨に長じた文西洞仁の大安寺に寓するを聞いて師事した。翌年和歌百首を詠じて、細川幽齋の批點を受け、歌才を稱揚せられた。【歌才】是歳六月海會寺の齋に招かれたが、其頃は弊衣一着を月下に洗滌して乾くを待ち、漸く列席したと云はれてゐる。然も玉甫紹琮及び雲英宗偉は其法器を認め、屢々之を招いたが、終に應ぜなかつた。同八年八月文西臨終の際、師資の禮をとり、貯ふるところの典籍を擧げて附與せられた。時に一凍紹滴陽春菴に住したので、數々其室を訪ふたが、機辯縱橫、應答響の物に應ずるやうであつた。【一凍の印可】一凍の南宗寺に移るに及び參禪し、(東海和尚紀年錄)翌九年八月終に印可を得、印證の語及び澤庵の道號を授與せられた。(古鏡禪師筆澤庵和尚道號)【春屋との應答】同十一年正月堺の富豪で茶技に秀でた、山岡宗無が、先考追福の爲めに供齋し、特に春屋宗園を招請の際、澤庵春屋の室に入つたが、春屋は公案を擧げて之を詰るや、應酬敏捷少しも礙らなかつた。時に一凍陽春菴の病床にあり、澤庵の擧を聞いて歎稱久しうした。【陽春菴第一座】四月一凍寂後陽春菴の第一座となり、祖塔を守つた。斯くして遂に十二年三十五歳大德寺の第一座となり、德禪寺の席を董した。此年四月慈母妙清六十一歳を以て病歿に會し鄕に歸り、佛事を修して冥福を祈つた。父宗峯以閑居土は、既に前年十一月卒去したのである。【南宗寺十二世】【大德寺住職】同年八月南宗寺第十二世となり、慶長十四年一派の長老玉甫紹琮の奏請により、三月大德寺第百五十三世に瑞世した。(東海和尚紀年錄澤庵山門請疏を製し、(山門疏)五山の高僧皆玆に臨み、一會の化儀甚だ盛大を極めた。(東海和尚紀年錄)【南宗寺歸山】然も住山三日、退鼓を鳴らし、一偈を唱へて辭去し、堺の道俗に迎へられて南宗寺に歸つた。十六年豐臣秀賴道譽を聞き、之を大阪に召したが固辭し、細川忠興亦先考の爲めに一寺を豐前に創し、其叔父玉甫を通じて、住職たらんことを請ふたが、再三固辭して終に赴かなかつた。翌年紀州侯淺野幸長、親しく南宗寺を訪ふて接見を求めたが、之を大安寺に避けた。秋冬の交大僊院に住し、是より兩寺に來往して衆を董した。是歳詠歌大槪音義一卷を著はして、之を近衞信尹に贈つた。【南宗寺鐘堂建立】十八年二月小出吉政卒去の際には、子吉英及び吉親の爲めに佛事を修し、布施を以て南宗寺の鐘樓を建て、七月に至つて竣功した。是歳大燈國師年譜一卷を編んだ。其中に大阪の風雲急を告ぐるを觀、澤庵形勢を察して、戰禍の堺に及ばんことを慮り、十九年京都より密に南宗寺に入り、開山の伽梨及び先師一凍の證書を携へて、歸山した。斯くして元和元年四月の兵火には南宗寺も亦果して其累するところとなつた。【南宗寺燒跡見分】九月に至り澤庵南宗寺の燒跡を見分し、直ちに岸和田の日光教寺に赴き、暫く此處に寓居し、十一月二十九日笑嶺和尚の三十三囘忌に大德寺に歸り、聚光院に法要を修した後、再び日光教寺に歸り、既にして天下村の極樂寺に移り、空寂の禪旨を味ひつゝ、元和二年の元旦を迎へた。二月岸和田の城主で、澤庵の俗弟秋庭半兵衞の主である小出吉英は、松樹三百餘株を南宗寺に寄附し、復舊の第一步を示した。【韓客との唱歌】朝鮮人李文長、愼昌仙、裴元臣、李碩之等と、和泉の水間、牛瀧の兩寺及び攝津の住吉に遊び、詩數十篇を唱和したのは此年三月であつた。斯くして六月南宗寺の假堂に歸つた。(東海和尚紀年錄)【妙法寺と寺域交換】【復興計畫】其中に堺市街も復興に着手せらるゝやうになつたが、玆に妙法寺と寺域交換問題を生じ、(妙法寺中興之末興隆古所傳幷日遙現見記錄)奉行北見若狹守勝忠の好意により、堺の南端現南旅籠町の地に新たに寺地を定むることゝなり、(東海和尚紀年錄澤庵は諸堂舍、塔頭等の位置を豫定して地割圖を作つた。【落慶式】寺域八千坪、繞らすに溝渠を以てし、(澤庵南宗寺地割圖)之に則つて開山堂、鐘樓及び外門等は、元和三年四月の交より建築に着手し、同五年の夏には方丈及び庫院等を建て、同年初秋再築工事を終へ、落慶式を擧げた。(東海和尚紀年錄)此時大德寺塔頭の大僊院宗玩、高桐院宗良、芳春院宗珀、玉林院印等連署して、安室宗閑を使者とし造營成就の賀詞並に、祝品を贈つた。(南宗寺再興賀書寫)爾來澤庵は更らに諸塔頭の復興と整理とに沒頭し、今の大町東三丁にあつた海會寺が、元和の兵燹に燒失し、其復興に苦しめるを察し、且つ巨豪谷正安が、新寺造營を希望してゐた際とて、正安をして海會寺との間に寺地交換の契約を結ばしめた。これ元和元年八月の事である。【海會寺移轉】同四年に至つて約の如く、南宗寺の地域内へ海會寺を移して、塔頭の一に加へた。【祥雲寺開山】寬永二年九月十日に彌々替地の請取證書をとり、(海會禪寺由緖略記、祥雲寺略記)海會寺址には、谷正安其素志を達して、同五年寺院を建て名づけて祥雲寺といひ、同十一年九月開堂供養して、澤庵を第一祖に請した。(祥雲寺略記)【輪番制の確立】斯くの如く諸塔頭の復興と整理とは、澤庵の苦心と努力とによつて實現せられたが、當時大德寺でも、南北兩派の軋轢あり、澤庵所屬の北派の中にも、三玄、古溪の兩派に分れ、且つ山内にも、東福寺派であつた海會寺の如きがあることゝて、澤庵南宗寺の將來を憂ひ、元和五年五月澤庵在世中は獨住地とし、歿後は、大用庵、松源院、養德院、大僊院で、三玄、古溪兩派よりの輪番地とする旨の誓約書を大僊院宗印、芳春院宗珀、龍雲院宗玩、高桐院宗良等より出さしめ、將來の禍根を絶つた。(大德寺執事狀)【南宗寺諸法度制定】次いで寬永十一年九月晦日澤庵南宗寺法度を制定した。
 【宗鏡寺再興】是より先き、但馬の宗鏡寺久しく荒廢に委されたが、小出吉英(吉英は岸和田より但馬の出石に遷つた)に勸めて之を再興し、元和二年八月但馬に抵つて、落慶供養の儀を擧げた。翌三年に筑前國主黑田長政の招請を辭し、八月京都の玉井菴に寓居、九月には幕命を受けて、大德寺の前住松嶽及び其徒を擯出し、永く濫行の徒を絶つた。【郷里隱栖】而して亦ある時は奈良漢國の芳林菴に寓して幽邃を愛し、或は泊瀨寺に入つて風光を稱し、或は山城薪の妙勝寺に寓し、同六年には但馬に歸り投淵軒を結び、庵居の和歌百首を作つて、閑寂の興を寫した。翌七年には和歌百首に、烏丸光廣の批點を受け、左右侍者の爲めに、理氣差別論一卷を著はした。翌八年光廣澤菴を但馬に訪ひ、互に亦詩歌數編を唱和した。寬永元年高松宮好仁親王亦但馬に抵られたが遂に謁しなかつた。同四年歸京し、玉室の法嗣正隱宗知を擧げて大德寺に出世せしめ、澤庵は直ちに南宗寺に歸つた。(東海和尚紀年錄)【近衞信尋の訪問】此時關白近衞信尋澤庵南宗寺に訪はれたので、偈文一篇を以て之に謝した。(澤庵筆近衞關白來駕拜謝偈)信尋は數日滯留し、朝夕參禪した。後水尾天皇亦召請せられたが、固辭して但馬に歸り、五年南宗寺に入つた。(東海和尚紀年錄
 【大德寺出世問題】これより先き慶長十八年、幕府は五山十刹出世の法度を定め、更らに元和元年七月細則を發した。寬永四年に至り、幕府近來大德、妙心寺の出世濫行せられ、元和の令に違反するものあるを以て同年七月老中土井利勝、京都所司代板倉勝重及び金地院崇傳等相議して、大德寺、妙心寺に對して處分し、元和以後、五山十利に出世入院して朝廷より綸旨を下賜せられたものは效力を失ひ、且つ又紫衣をも剥奪せらるゝことゝなつた。(日本佛教史之硏究)【澤庵等の抗議】大德寺では、澤庵、玉室宗珀及び江月宗玩の三人連署して、幕府に對して抗辯書を提出した。其文は澤庵の手になつたものであるが、辭句極めて激烈、元和の法度に對して箇條每に痛烈に辯駁して居る。(古相樣御下知大德寺諸法度五ヶ條)斯くして同六年幕命により江戸に召還せられ、幕府の詰問に際し、澤庵は玉室等と堅く寺法を執つて動かず、遂に流罪に處せられた。此時江月は故あつて免され、澤庵は出羽山の上の土岐山城守賴行に、玉室は陸奧棚倉の内藤信照に預けられた。七月玉室と共に江戸を發し、下野太田原から分れて、奧羽兩地の謫所に赴いた。澤庵は配所の地に扁して春雨と稱し、參禪の徒隨集した。【江戸に歸る】同九年六十歳の時赦に會して、七月玉室と共に江戸に歸り、神田の廣德寺に寓居し、冬に至つて駒込に徙り、堀丹後守直寄の別業に入つた。【大德寺歸還】同十一年の春武野宗朝寫すところの頂相に贊し、六月幕命によつて、玉室と共に大德寺に歸つた。七月將軍家光に二條城に謁し、八月後水尾上皇の命を奉じて、仙洞御所に法談し、是歳但馬の鄕里に歸り、同十二年十二月又幕命によつて江戸に赴き、柳生宗矩の麻布別邸に寓した。【江戸城中の講說】翌年七月江月、玉室等と共に城中に召されて宗意を問はれ、應答頗る台意に稱つて、以來屢々城内に宗義を講じた。十月歸洛し、直ちに但馬に入り、席未だ暖まらざるに、十二月大德寺に於て、大燈國師三百囘忌の法要を勤めて、又但馬に歸つた。續いて同十四年三月大僊院に大聖國師の一百年遠忌を營み四月命によつて江戸に抵り、麻布の檢束菴に寓した。家光澤庵をして、地を品川に選ばしめ、十五年東海寺を創建した。次いで但馬に至らんとして、途中堺に抵り、四月古鏡の

第四十八圖版 皇朝類苑(卷 首)(卷 末)

 
 
 三十三囘忌を南宗寺に修した。柳生宗矩は神護山芳德寺を、其采地大和の小柳生に建て、請して開山とした。七月入洛して先師の塔を巡禮し、堺を過ぎつて但馬に赴かんとしたが、(東海和尚紀年錄)上皇勸修寺中納言經廣を遣はして南宗寺より召さるゝに及び(後水尾院奉書)九月仙洞に謁して、重陽の賀儀を述べ、聖壽の無彊を奉祝した。又別殿に召されて禪意を演べた。(東海和尚紀年錄)【原人論進講】【御下賜三品】越えて數日、上皇原人論の進講を下命せられ、講説甚だ聖旨に契ひ、十一月忝くも皇朝類苑、茄子型紫石硯及び青磁香爐の恩賜があつた。(後水尾院奉書、三品目錄)門下一絲文守は頌並びに序を作つて之を賀し、天祐紹杲亦之に和した。(原人論講談之賀頌)恩賜品中前二品は現に祥雲寺の什寶となり、後者は故あつて大阪市住友男爵家の有に歸して居る。十月國師號を賜はらんとしたが、之を固辭して、故徹翁に之を請ふた。上皇卽ち翌月徹翁に、天應大現國師の徽號を追諡せられ、世之を以て美談とした。(東海和尚紀年錄)【自讃畫像】寬永十六年二月谷宗印(正安)は澤庵の肖像を寫して、之に贊を請ふた。(澤庵和尚像畫贊)同畫像は現に祥雲寺の所藏にかゝり、國寶に編入せられて居る。裱裝使用の布帛は、世に之を祥雲寺切れと云つてゐる。【東海寺住山】三月江戸に赴き、台命によつて、品川東海寺に住した。數日の後家光東海寺に至り、大厦の新成を賀した。澤庵卽ち國風一首を詠じ、國家の悠久、新寺の宏大を祝した。同十七年將軍別に邸宅を澤庵に下賜し休息の場に充てた。次いで堀田正盛は臨川院を、酒井忠勝は長松院を、細川光尚は妙解院を、小出吉親は雲就院を創立して、皆東海寺の境致とした。二十年寺後の山下より、清泉湧出したるを以て、師は之を引いて、一池を室の後方に開き萬年石記を作り、又祠堂の記を作つて東海寺に揭げた。(東海和尚紀年錄)【芙蓉圓相】正保二年澤庵畫工に命じて、一圓を劃せしめ、五月七日親ら其中に一點を加へ、讚を其上に題して壽容とし、(澤庵和尚圓相)一軸は之を東海寺に置き、一軸は之を南宗寺に納めた。【臨終】十一月疾に罹り、翌月十日には將軍名代として松平信綱の音問を受け、遂に十一日衆に強ひられて遺偈夢の一字を書し、筆を投じて遷化した。世壽七十三、法臘五十七。東海寺の西北に葬つた。
 【南宗寺中興開山】澤庵の歿後、其門弟の京畿にある者及び南宗寺に關係のある人々等相胥つて、南宗寺の中興開山と定め、位牌を開山堂に安置した。(東海和尚紀年錄)【康知作木像】南宗寺の住職天祐紹杲は白金二百三十有餘兩を寄附して、掛眞料とし、又一山の諸衆相議して、一は文庫を建てゝ壽容を納め、他は木像を造つて、開山塔の側に安置した。像は京都の大佛師法橋康知の作るところ、紫野の喧齋の寄進したものである。正保三年八月開眼供養を行つた。(澤庵和尚木像胎内書銘)是より以後年月の忌齋及び諸般の佛事は、總て開山普通國師と同樣に營まるゝことゝなつた。(澤庵大和尚行狀)【祥雲寺寂然塔】又門弟の祥雲寺に在る者は、塔を建てゝ遺像を安置し、扁して寂然と稱した。(東海和尚紀年錄祥雲寺にある澤庵の壽像は、寬永十四年夏大佛師本江左京康音の作である。(祥雲寺略記)慶安三年五月南禪寺僧錄司冣嶽元良銘を作り、鎌倉禪興寺釋元榮の書、德禪寺宋眠の篆書を得、翌四年十二月寂然塔の落成を見た。武野宗朝の建てたものである。(泉州堺南莊祥雲禪寺開山寂然塔銘幷序)澤庵詩歌俳諧を能くし、又畫を牧溪玉澗に學び、筆墨秀潤の妙を得た。(丹青若木集、扶桑名工畫譜)又茶湯に悟入し、(茶人系傳全集)鍼術をも御薗意齋に學んだといふ。(日本醫學史)【著書】主なる著作に、明暗雙々集、不動智神妙錄、玲瓏隨筆、東海夜話、結繩集、東海道之記、鎌倉遊覽記、歸西日記、澤庵法語、理氣差別論、茶器詠歌集、澤庵和尚和泉百首、澤庵和尚歌集、泉南寓記等がある。(日本文學者年表續篇)

第四十九圖版 澤庵書狀

 
 

第五十圖版 澤庵圓相