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(一)妙國寺

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 妙國寺廣普山と號し、【位置】材木町東三丁にあり、【無本寺】日蓮宗無本寺、【沿革】開基三好豐前守之康(道號實休)、開山は佛心院日珖である。始め堺北莊に宗賀なるものあり、深く南宗寺の第二世笑嶽宗訢を慕ひ、南宗寺に對して北宗寺を建て宗訢を請して開山の祖となさんとしたが固辭して許さず、宗賀志の動かすべからざるを知り、寺號を改めて日蓮の宗徒をして之に居らしめた。是れ卽ち妙國寺の前身である。(泉州龍山二師遺藁)三好之康は當時京都頂妙寺の化主日珖に歸依し、永祿五年堺の別墅東西三町南北五町の地を割いて伽藍の創建を企てたが、(佛心歷代師承傳)寺領五百石を寄進したまゝ、同年三月五日泉州久米田に於て戰死した。(佛心歷代師承傳、明治三十五年寺院提出書類)【日珖の寺刹創建】同八年日珖は當寺敷地の請取を了り、(日珖師書行功部分記)父伊達(油屋)常言は堂宇造營の資を供し、翌九年より伽藍の建築に着手した。八月大坊の造營を始め、翌十年秋の終より本堂の作事に着手し、十一年三月には土佐より虹梁を得、四月礎石を置き、元龜二年四月竣功した。是より先、同元年佛師大貳釋迦多寶二尊を造立し、翌年竣工した。是に於て八月遷座式を執行した。學問所は二年四月立柱式を行ひ、天正三年には寺域を南方に擴張した。同四年七月番神社の造營に着手し、翌五年内造作を竣成し、同年正月兵庫築島來迎寺の堂宇を、番神堂の拜殿として移轉せしめ、同六年四月同拜殿を造立し、十一月遷座式を擧げた。同七年二月油屋常祐の夫人施主として鐘樓を建立し(日珖師書己行記、行功部分記)八年七月の末蓮池を穿ち、九年十一月には家原寺より四足門を移轉せしめ、十年の春には經藏の位置を變更して東方の分を文庫とし十一年には影堂を造立した。(己行記)塔頭は永祿九年の夏に常緣坊十地坊、同冬には常住坊を、同十年の春より夏に亙つて祐玄坊を、元龜三年には圓實坊を、天正元年には常柔坊を、同四年五月より六月に至る間に常得坊を、同年十月には宗宅坊を、六年には卽德坊の土藏及び常祐坊を、七年には妙空坊常悅坊を、十一年には常勿坊宗惠坊を造立し、同年中に南北學問所を始め樓門、鐘樓、四足門、廻廊其他の造營を完成した。是に於て一大叢林を完成した。(己行記、行功部分記、佛心歷代師承傳)【後奈良天皇の勅願所】事後奈良天皇の叡聞に達し特に勅願所に列して菊花絞章を下賜せられた。(明治三十五年寺院提出書類)【將星の宿泊】天正十年五月德川家康穴山梅雪と堺に來り、家康は當寺に、梅雪は光明院に宿泊した。既にして本能寺の變を聞き、共に急遽歸途に就いた。同十三年三月下旬豐後の大友宗麟豐臣秀吉に謁せんが爲めに來り、當津に着船し宿泊した。(佛心歷代師承傳、治要錄、堺鑑中、泉州志卷之一)【印寺領】寺領として秀吉攝津桑津村に百二十石の印を寄せ、德川幕府亦之に倣つたが(代々年鑑)明治四年正月上地した。堂宇は元和兵燹後復興計畫の際に境を縮小せられ、【元和後の復興】再興の資に艱みて寺寶北野茄子肩衝を賣り漸く元和二年庫裏を、寬永四年本堂を造營した。(明治三十五年寺院提出書類)【住職の官階】當寺の住僧は開山日珖以來歷代僧官に任ぜらるゝを例とし、(妙國寺歷代口宣案)就中第十五世日圜靈元天皇の勅を奉じて、中御門天皇の御登極以前より聖壽の長久を祈り、(明治三十五年寺院提出書類)特に權大僧都に任ぜられ(口宣案)更に勅願所の徽章として菊花絞章附幔幕及び提燈を附與せられ(明治三十五年寺院提出書類)宸翰「春は來ぬこれもまつさく花とみてえならぬゆきのゑたやかさゝむ」の御製を下賜されてゐる。(御製懷紙、日圜宛坊城大納言添狀)爾來勅願所の例格を守つて、【祈禱】每年正月祈禱執行、卷數を奉獻し、慶應の末年に至るまで繼續した。(明治三十五年寺院提出書類)又幕府巡見所の一に加へられ、公檢を受くるを例とした。(文化十年手鑑)是より先、文祿年中下總法華寺日典、本宗の靈寶を散逸せしめた爲に、日珖之を德川家康に訴へ、日典中山寺より退去せしめられた。【中山寺輪番】是に於て文祿三年中山寺の役者一同は日珖を後住に請し、且台命を以て堺妙國寺と法華經寺との兼職を命ぜられた。其際京都頂妙寺第四世日曉、同本法寺第十世日通日珖の門下たるの關係により、日珖を始祖として、妙國、頂妙、本法の三寺が、輪番に三箇年間中山の住職を兼務することゝなつた。然るに承應元年三箇寺の協議により永輪番制度に改めたが、頂妙寺日威輪番の際中山の衰頽を歎き、萬治二年永輪番制を改めて舊制に復した。(治要錄)
 【本尊】本尊は三寶尊、四菩薩、二大士、四天王、二明王で、【堂宇】本堂(寬永四年造立)、庫裏(元和二年造立)、書院(寬文五年造立)、客殿(延寶二年造立)、寶藏(元祿九年造立)、經藏、三重塔(萬治元年造立)、鐘樓(正德二年造立)、鼓堂兼廊下、表門(寬文二年造立)、出仕門、土藏、四方門竝門番所、通用門、茶所等あり、佛堂に祖師堂及び德正堂の二宇がある。(明治三十五年寺院提出書類、社寺明細帳)【塔頭】塔頭には寶永元年の記錄に信行、寶塔圓立、青龍、十乘、惠照、吉祥、栴明、舜如、龍雲十院の名がある。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)享和元年十一月板の難波丸綱目には、以上の中空坊二宇として信行及び龍雲二院を逸して居る。維新後惠照、栴明、青龍、舜如の四坊があつたが、舜如院は明治二十九年十一月神戸市山本通六丁目へ、青龍院は同三十八年大阪府泉南郡下莊村大字箱作へ移轉し、今は惠照、栴明の二子院のみを存してゐる。境域三千百五十一坪(社寺明細帳)【什寶】【國寶銘長義脇短刀】什寶中銘長義脇指一口附正德三年彌生の折紙一通は大正十三年四月國寶に編入せられた。其他傳傳教大師作大黑天像一軀、日像作觀念宗祖の像一軀、宗祖日蓮筆本尊三幅、日朗、日像、日常、日親日珖等筆の本尊各一幅、日蓮書幅七、傳嵯峨天皇宸筆寫經一幅、傳伏見天皇御製和歌一幅、冷泉爲家筆細字三十六歌仙和歌一幅、三好義良書狀一幅、三好永椿和歌色紙一幅、豐臣秀吉朝鮮渡海印狀一幅、同消息一幅、伊達政宗書翰一幅、靈元法皇宸翰御製和歌一幅、同上坊城大納言添狀一幅、大藏卿筆日蓮畫像一幅、傳兆殿司筆釋迦像一幅、同文殊普賢像一幅、雪舟筆濡烏之圖一幅、同遠法師之像一幅、唐人毛益筆虎之圖一幅、明人呂夢芝筆春山遊人之圖一幅、同朝敲復筆山水之圖一幅、筆者不詳古畫十六羅漢之像十六幅、北野茄子由緖覺一卷、日珖書神力品御談一册、同己行記一册、同行功部分記一册、始問佛乘義一卷、銅鐸一口、傳源賴朝甲山神社へ寄附の内の古銅鈴一口、傳三好之康寄附具足一領櫃附、傳松永久秀遺物兜一領、傳加藤清正所持軍配一面、同朝鮮劒一口、傳相州正宗作太刀(傳筒井順慶所持、明和八年筒井六之丞寄附)一口、來國光作太刀一口、三池典太光世作太刀一口、普賢品彫込の白瓦硯一面、銘小菊笛一管、傳三好之康寄附古南蠻花瓶一個、日珖所持狛香爐一個、遠州天目茶臺一個、青磁小豆形花瓶一個、光堂天目茶碗一個等がある。猶方丈庭前の蘇鐵は妙國寺の蘇鐵として四方に著聞し、本堂の庭前は明治元年二月佛蘭西兵士を殺傷した土佐藩十一士の屠腹したところである。【墓碑】墓地所在の墓碑中主なるもには、開山日珖の父油屋常言、同伯父常琢、同兄常祐の墓を始め、堺奉行仙石政寅、同黑川盛匡、同小菅正芳、與力伊藤氏累代の墓碑等がある。伊藤氏墓碑中松軒のものは奧野小山の撰文に係つてゐる。【實休塔】又堺鑑、和泉名所圖會等には三好之康塔の存在を記し、法諡妙國寺殿光德實休と鐫すとあるも、其所在は明かでない。