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(一)南宗寺

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 市内禪宗の巨刹として知られた南宗寺は、【所在】南旅籠町東三丁にあつて臨濟宗大德寺派に屬し、【境域】境内東西七十三間餘、南北九十六間餘、諸塔頭を加へて一萬九十坪四合六勺の面積を有してゐる。
 【境内】寺は大道南半町北側に立てられた南宗寺の標石を東へ、境外塔頭臨江菴表門を左折し、南旅籠町北筋を更に右折すると右側に總門がある。【山門】門内參道を南へ瓦葺重層樓の山門の傍(甘露門)を東へ進めば、右に塔頭寶光菴、左に大德寺末の德泉菴がある。山門の東方翫月橋を渡れば東方に當寺鎭守の辨天堂があり、【集雲菴址】堂の東方に集雲菴址がある。集雲菴は明治以後廢寺となり、最近舊址へ堺市立第三幼稚園が建つた。翫月橋東詰南方は境内俄に開け、【鐘樓】松林に圍まれて鐘樓がある。懸るところの巨鐘はもと本源院のものであつた。鐘樓南方の

第百十圖版 南宗寺實測圖

 
 
 【佛殿】佛殿は法堂にも充てられ、正面に大雄寶殿の扁額を揭げた桁行五間、梁行五間半の重層建築である。内部は瓦敷、正面須彌壇に釋迦如來、文珠、普賢兩菩薩を安置してゐる。庫裏の廊下には右側控室に中興開山以下の南宗寺定書の板額を揭げてゐる。
 【方丈】廊下傳ひに食堂を過ぐれば南面の方丈に出る。桁行九間、梁行五間(柱内)正面に方丈の扁額を揭げ、内陣には華嚴釋迦如來を安置してゐる。【方丈の前庭】其前庭は古田織部正重然好を模して白砂を敷き詰め、東北には自然石及び灌木を配置し、南方は小丘に連續し、小丘と庭園との境界には巨岩を重ねて溪流を模し石橋を架して風致を添へてゐる。方丈の東南端より南へ瓦敷の廊下を進めば、【東照宮】右に東照宮本殿、左に同拜殿と唐門とがある。本殿は銅葺流造に唐破風を附した一間社で、拜殿は攝心に際し僧堂に充てられる。【開山堂】是より南へ進めば程なく開山堂の正面へ出る。開山堂は祖堂、昭堂、曹溪菴とも稱し、開山墓地の上に建てられ、東面の桁行五間、梁行四間半で、正面に南宗正續の扁額が懸かつてゐる。内部は瓦敷、正面壇上の中央に開山大林和尚、右方に中興開山澤庵和尚、左方に毘沙門天の木像を安置し、堂内左方の壇上には創建の檀那たる三好氏の位牌が安置せられてゐる。又開山木像の扁額には昭堂、中興開山木像の扁額には獅子窟と記し、開山安置の壇下には開山塔を建て、其前に朝鮮渡來の香爐がある。【無銘の卵塔】開山堂の後方堂下には一に一四、五寸程の穴があり、其所から無銘の卵塔が窺はれる。塔は所謂德川家康埋葬のところと傳へられてゐるものである。【坐雲亭】開山堂東南隅の坐雲亭は重層建築で、上層は一間四方、坐雲亭の扁額を揭げ、下層は三間四方、將軍御成記、十境幷諸堂題號の板額を揭げてゐる。元來此亭は初め鐘樓であつたが、元和九年秀忠、家光の兩將軍相次いで來堺の節此亭に上つて風光を賞した由緖によつて名付けたものである。(堺大觀)【喜多見勝重の影堂】亭の東北に堺奉行喜多見勝重の影堂があり、其傍に勝重の碑石がある。影堂は墓碑の上に建てられ、一間四方、南面し、堂内正面には板繪の畫像を懸け位牌を安置し、板繪の上には勝重の敍位口宣案を錄した板額を懸けてゐる。碑石に記した銘文は剝落して判讀しかねるが、明庵雙々集によれば、當寺に於て勝重と親交のあつた澤庵が其略歷を記した事が知られる。寺傳に此碑を再建塔と稱してゐるのは勝重が山名豐國と同じく元和再建の際盡瘁した爲めであらう。影堂の東方は前記佛殿の背面に當り、佛殿内部は此處から入るのが普通である。佛殿の南側には僧堂に通ずる參道がある。僧堂はやゝ荒廢してゐるが、所謂禪堂である。【禪堂】禪堂は桁行十一間、梁行四間、明治初年專門道場となつた際に建てられたものである。(清隱道嚴和尚談)僧堂より佛殿に引返し、佛殿西北端から影堂、坐雲亭の北を過ぎ、開山堂正面に至る瓦敷廊下を傳つて方丈に出で、方丈の西へ廻れば緣傳ひに實相庵がある。【實相庵實相庵利休好みの茶席で、一、三、五の奇數月には二十八日の利休忌日に、二、四、六の偶數月には十九日の宗旦忌日に茶會を催し、殊に利休正當忌の二月二十八日には盛大なる茶會が行はれる。(正井喜平治氏談)席は初め鹽穴寺境内にあつたが、明治九年博覽會の際金龍水と稱した次の間と共にこゝに移轉修復したのである。庵は南に露路を設け、柏樹の植込を切り揃へて生籬とし、以て方丈の前庭と區別し、方丈から通ずる飛石傳ひに露路口を入れば、右に待合、左に向泉寺傳來の袈裟形の手水鉢を見、更らに右にニヂリ口、西南に利休好六地藏の石燈籠がある。之は妙國寺にあるものと一對になるものである。ニヂリ口を入れば二疊臺目の濫觴と云はれる席がある。席はニヂリ口の内側に半疊其北に又半疊を敷き、此兩疊の東に道具疊一疊、西に一疊臺目を敷いてゐる。爐は缺爐で半疊二枚の境に切り、床は一疊敷の北にある。床の東側の壁には利休當時の儘と稱する壁を瓢形に殘し、落掛には俊寬が鬼界ヶ島より流した卒塔婆とも、空海筆蹟の卒塔婆とも傳へた文字の跡がある。(口碑)床の東に圓筒形に拔いた通口は給仕口で、其東に茶道口があり、席の西に廊下がある。又道具疊の南方は板敷で、違棚を設け、前記半疊敷の境なる歪柱は櫟を使ひ、南側ニヂリ口を避けて欞子窓がある。前記勝手口を出づれば廊下となり、北側に水屋を設け、其東方に爐を切つて控釜を懸けてゐる。(古家太郞兵衞氏談)廊下の東方は方丈に、西方北側は金龍水の間に續いてゐる。蓋し實相庵の往時の敷疊は現狀と異り、上圖の如くであつた。(實相庵圖)又西側の緣は鹽穴寺にあつた頃は他の部屋への連絡に使用されてゐたのである。(古家太郞兵衞氏談)斯くして再び鐘樓所在の廣場へ出づれば、東方に東福寺派の海會寺がある。海會寺の南は南宗寺墓地への通路で、通路の南に塔頭天慶院がある。【天慶院天慶院は周圍に土塀を繞らし、西に表門を附し、本堂は桁行五間、梁行三間半を有してゐる。【大黑庵】院内大黑庵の茶室は寺傳では武野紹鷗好みと傳へてゐるが、恐らく後世の模倣であらう。【本源院天慶院の西を南へ赴けば塔頭本源院となる、桁行九間、梁行六間半の本堂を有し、庭前に歡喜天、毘沙門天を祀る二堂がある。
 

 

 

第百十一圖版 實相庵實測圖

 
 
 【南宗寺墓地】南宗寺墓地は天慶院及び海會寺の東方にあつて牡丹花肖柏武野紹鷗千利休等の供養塔並びに堺奉行贄安藝守の墓等がある。就中紹鷗の供養塔はくり拔きの茶釜型で、德川時代には之を叩けば湯のたぎる音がするといはれ見料を取つて見せたこともあつた。(覊旅漫談)【本源院墓地】又本源院墓地は同院の南にあつて、織田信長信忠父子の供養塔を始めとし、橋本桂園趙陶齋源恭義賴達堂等の墓碑がある。
 【臨江庵】更らに當寺境外塔頭として臨江庵がある。南旅籠町東三丁に所在し土塀を繞し、北方表門を入れば門内東方に稻荷、乳守の二社がある。【乳守社乳守社は俗にチドロさんと稱せられ、俗間乳を守る神と傳へ、婦人の參拜者が多い。本堂は東面桁行四間二、梁行三間二を有し、前庭は古來萩の名所として知られてゐる。(堺大觀)境内西南隅の墓地には今井氏の塋域がある。【十王堂址】當庵は又十王堂の舊址である。(全堺詳志)堂は織田信長の命に乖いて誅戮された堺十人衆供養の爲めに建てた所といふ。(全堺詳志、堺大觀)