写真-6 永田長蔵
円山村の上田万平は天保十二年(一八四一)にいまの岩手県盛岡市に生まれ、明治四年、三〇歳の時に円山村に弟の善七と共に移住した。十三年に総代人になって以来、途中わずかの中断はあるものの、総代人制最後の三十九年まで重任しつとめあげた(『円山百年史』は終始総代人であったとする)。在任期間中、円山小学校の維持と西野に所在した学田の造成、備荒蓄積の推進、公有地の造成、村落自治の確立などに尽力した。その他、札幌神社の崇敬、神楽、祝詞の諸講の創設と維持にも尽し、「本村の発展、住民の福利能く今日を致したる所以(ゆえん)のもの万平の指導誘掖に負ふ所多し」と、三十五年に頌徳碑を建立した(殖民公報 第六九号)。さらに四十三年七月に上田一徳翁之碑が建立された。万平は大正六年六月七日に七七歳で卒去したが、昭和三年に遺徳をしのび胸像も製作された(円山百年史)。
写真-7 上田万平
写真-8 上田善七
豊平村の阿部与之助は、天保十三年(一八四二)に山形県飽海郡南平田村(現平田町)に生まれ、明治三年に来道した。四年に札幌に来て七年から豊平橋のたもとで商業を営みながら開墾にも精を出し、地所を集積して三十五年には一四七町歩にもいたっている。十六年以降総代人となり、病気の間は子息の幣治が総代人をうけつぎ、三十五年の二級町村制の施行で総代人の廃止にあたり、村民から報労の記念品が贈与されている(北海タイムス 三十五年四月二十九日付)。在任中は豊平小学校、戸長役場庁舎の設立・維持、公有財産の造成、消防組の設立、公共事業への寄付などに数々の貢献をした(殖民公報 第一一号)。大正元年十一月十日には彼の頌徳碑も月寒公園に建立されたが、翌年六月に卒去した。
写真-9 阿部与之助
写真-10 阿部与之助(もと幣治)
阿部与之助とならび永らく総代人をつとめた阿部仁太郎は、嘉永六年(一八五三)に上磯郡茂辺地村に生まれ、父丑太郎と共に明治四年に札幌へ来た。十二年から豊平村に居住し、商業のかたわら開墾に励み、厚別や厚別器械場(現滝野)に農場を開いている。豊平、厚別の郵便局も開設し、各所にわたり広い活躍をした。三十二年七月に功労碑が豊平村に(豊平神社境内に所在)、大正二年七月に厚別器械場に建碑された。
写真-11 阿部仁太郎
平岸村の中ノ目文平は、天保五年(一八三四)仙台に生まれ、明治四年に水沢の伊達家臣ともども平岸村に移住する。十九年から二十六年の在任中、連合用水の開削や村政に「尽瘁する事数十年一日の如く」(北海道開発事績)といわれている。また文平は日記を残しており、当時の農作業や村の状況を知る上での貴重な史料となっている(豊平区中ノ目家蔵)。
以上、五人の総代について紹介したが、いずれも各村の草分けであることに特徴がある。決して当初から移民集団を統率する役割ではなく、徐々に実力を蓄え信望を集めてきたタイプであったことも共通している。篤農家であると同時に、かたわらで商業や土木請負、各種の実業を手広く営む新開地特有の実業家タイプであり、得た利益の一部を寄付の形で公共に還元する奉仕活動もよくみられる。また、上田万平は善七と兄弟で、阿部与之助は幣治、阿部仁太郎は丑太郎と親子で村政に寄与し、各種組合に参画し地域的リーダーとなっており、その後も村会議員をつとめるなど、一家での活動を行っていた。このような名望家による地域的リーダーの役割は、自治制が確立していない段階だけに必要とされたものであり、彼らはそれによく応え諸村の発展に大いなる寄与をしたといえるだろう。
しかし総代人は各村二人のみであり、各村の〝民意〟を反映するには、あまりにも僅少すぎた。三十二年における各戸長役場内における総代人員、選挙権及び被選挙権所有者は、表12の通りであった。
表-12 総代人員、選挙権・被選挙権所有者 |
村 名 | 総代人員 | 選挙権所有者 | 被選挙権所有者 |
上白石・白石 | 4人 | 170人 | 100人 |
山鼻・円山 | 4 | 269 | 204 |
琴似・発寒 | 4 | 507 | 125 |
札幌・苗穂・丘珠・篠路 | 10 | 477 | 233 |
『新札幌市史』第7巻1071頁より作成、一部訂正。 |
各戸長役場により選挙権所有者の人数は異なるが、やはり所有者数の割には総代人員が少ないといえる。村自治をめざすには、村会議員選挙を実施する町村制が必要とされていたのである。