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40代天武天皇白鳳年間、信濃国の束間の湯(つかまのゆ)(注1)に行幸したときのことです。束間の湯から東の山陰に七久里の湯(ななくりのゆ)(注2)がある事を聞きつたえ、天皇が行幸しました。7つの湯の中でもすぐれた2つの湯に浴すると、御身体がさっぱりしたので天皇が感心し、2つの湯を永寿湯、長命湯と名付けました。そのとき宮居を遥拝し、和歌を詠みました。
信濃なる古き宮居の夫婦山万代つきしみたらしのみゆ
この御うたから、この温泉を信濃のみゆとも、七久里のみゆともいいます。
45代聖武天皇のころです。行基菩薩がこの地に降り、瑠璃殿を造立し、薬師如来を安置し、長楽寺(ちょうらくじ)・安楽寺(あんらくじ)・常楽寺(じょうらくじ)を建て連ねました。しかし、後年天変があり焼失し、名だけが伝えられたといわれています。
53代淳和天皇の御代(中略)円仁大師は長楽・常楽・安楽の3か寺を再建して、台密禅の3宗とし、両岳尊神の本地堂を男神岳に造立し、阿弥陀如来・十一面観音を安置して岳の御堂としました。さらに、正観音・馬頭観音の堂を建立して岩谷堂としました。
次に二尊が出現した火坑の上に宝塔を造営し、諸師が集まり、金銀泥の一切経を書写、宝塔へ納めました。山内の鎮守には江洲坂本の日吉山王の内八王子権現を勧請しました。
七久里温泉も薬師観音示現によって再興し、温泉明神結の神の社等を再建、勅使らが両温泉に浴してからは、さらに温泉の名声が高まりました。
56代清和天皇がご病気になられたとき、霊夢を感じ、北向山におすがりし、諸堂社を再建されました。新たに観土院・蓮華院・明星院・西尊院を造り、三楽寺(さんらくじ)の別院(べついん)(注3)としたのです。その上、九重・五重・八角四重の塔を経営し千貫文の地を寄付し、万の料に加増しました。
清和天皇の皇孫である滋野親王が信濃国の海野にいてこの温泉に浴し、和歌を詠みました。
むかしより下にある火の尽されば信濃のみゆのさむる世はなし
男神岳・女神岳に参り、詠んだ和歌は次の通りです。
信濃なる男神女神の夫婦山百夜もあかぬみたらしのみゆ
60代醍醐天皇が敦仁親王といっていたころ、温泉に行啓し、両岳を拝み、結府二文字を額面に書き、里宮に掛けさせました。
63代冷泉院の御代、安和2年信濃国の戸隠山に活鬼紅葉という妖賊(ようぞく)(注4)が住み、人々に害を与えていました。このことを朝廷が聞き、急いで退治しなければと、平(たいらの)維茂(これしげ)(注5)に勅命しました。
惟茂はまず北向観音・日吉八王子権現に祈願し、戸隠へ出向き賊の首領を打ち取りました。活鬼紅葉のたましいが大天狗・小天狗の形を表し、八丈坊・九丈坊と名乗り日吉権現の眷属となり、北向山を守ると誓いました。惟茂がたやすく賊を滅ぼし、人々のわずらいを取り除いたので、天皇は褒め、惟茂を将軍に任じ、信濃・甲斐・越後の太守としました。
惟茂将軍は信濃の国の松尾に城を構え、大悲殿・瑠璃殿・日吉の神祠そのほかを残らず再建し、別に六十坊を建立し支坊とし、七堂伽藍の霊場三楽四院六十坊と称しました。惟茂将軍は一千貫文の地を寄付し、淳和・清和両帝から寄付された二千貫文とともに塩田(注6)三千貫の地を当山領としました。なお、この里に別業を造営し、別所と呼んだので、それがこの里の名となりました。
数百年がたちました。木曽義仲がこの地で平家を討とうとし、火を放ちました。梵閣金殿は兵火にみまわれ、灰燼となりました。ただ、大悲殿と八角四重の宝塔だけが残りました。
その後、右大将頼朝が海野氏(うんのし)(注7)に命じ、諸堂社を再建、法橋上人を入れ、大悲殿を守らせ新たに祇園社を結の神の摂社に加えました。
北条家は常楽寺竪者性算を大悲殿別当の中興とし、安楽寺を再建して樵谷禅師(注8)を臨済禅門の開祖としました。禅師の御影堂は叢林の中にあり、目をわずらった者がこの影像に平癒を祈ると霊験があります。
宝治年間に、法橋上人位入禅・竪者性算大勧進となり、結縁のため多くの人を集め、開山大師の昔にならい、金銀泥の一切経を書写したものを火坑に納め、石の宝塔を再建しました。
足利将軍義満の世、海野氏が朝廷の命令を受け、諸堂社を再建し、神託によって両岳の里宮結の神社を今の地にうつし、熊野三社権現と改めておまつりしました。その後、天文・永禄のころ、甲越に何回も戦いがおこり、諸堂社は兵火のために荒廃しました。多くの人が志を寄進し、ようやく元和年間に真田侯が諸堂社を再建しました。
男神岳(おがみだけ)(注9)・九頭竜権現などの例祭は6月15日です。むかしから当日未明に神主と村人が男神岳へ登り、3丈あまりの長いのぼりを村の家数立ち並べ、神酒を供え、御領主の武運長久と村の安全、五穀豊穣を祈り、神酒を開き、下山し、女神岳の神へ供え神酒を開きます。
むかしは、女神岳の山頂へも登っていましたが、大樹が茂り、のぼりを立てながら登るのは難しくなったので、ふもとに立ち並べそなえることとなりました。
例祭ののぼりを多数く献ずることの由来を聞きますと、むかし、旱魃が何年も続き、山川の流れが絶え、井水も干上がり、村人は困り果てました。そこで、男神・女神の両岳へ祈願し、大雨を速やかに降らせ、困り果てた村人を救う方法として、長い布を張り、龍神の形を表し、これを立ち並べ、祈ることにしました。このようにして祈りますと、男神岳の上に九頭竜の形の雲があらわれ、女神岳の上を覆い、一斉に大雨が降ったのです。それから今まで、のぼりを献ずることを毎年つづけている(注10)のです。九頭竜権現を男神岳の守護神としたのは、この事象によるものです。
別所方面のさまざまな道を紹介します。
一 上方から江戸へ向かうとき、別所の北向山に参詣するためには、中山道洗馬宿から松本へ出て、保福寺峠を越え、別所へ下ります。これは11里あまりの道のりです。別所から長瀬(注11)通りで海野宿へ出て、追分宿までは9里です。
一 東国から来て善光寺参詣し、別所北向山を参詣するためには、海野宿から長瀬通りで別所へ3里あまりです。
諏訪形の荒神を参詣するには、大屋の下、茂沢の舟(注12)で千曲川を渡ります。小牧(注13)通りで海野から荒神までは、1里あまり、荒神から別所まで2里あまりです。
別所から半過(はんが)(注14)の舟で千曲川を渡り鼠宿へ出て善光寺までは10里あまり、室賀峠を越えて(刈谷原へ出ても、八幡方面経由でも)善光寺までは10里です。
すべて13里あまり、本街道、善光寺までは12里です。
一 諏訪方面から善光寺参詣にいく途中で別所へ立寄る道を示します。
和田嶺を越え、長久保宿を経て腰越(注15)に出て砂原峠を越えて別所へ行きます。別所から善光寺まで10里、すべてで20里となります。本街道諏訪から和田長久保上田通りでは22里になります。
出浦古記
平和の世が続き、北向山はますます繁昌しました。
80代高倉院の治承年中、信濃は惟茂将軍13代の孫、越後の住人城太郎平資永信州の半分を有し、力を近国にふるっていました。
北向山は祖先から代々の祈願所ですから、心を寄せてはいましたが、おごっており、傍若無人の振舞が多くありました。
平家の一門は、おごり、ぜいたくをし、政道は乱れたので、源氏の一族は各地で蜂起しました。
治承4年、源頼朝が伊豆で挙兵しました。
信濃の住人木曽義仲は父義賢とはちがい、古今稀なる勇将でした。代々の家来はもちろん、浪人や野武士を集め北国から都に攻め入ろうとしました。寿永元年、北国に進展、篠原の戦いに勝ち、越中の砥並山倶利伽羅谷の戦いで勝利し、比叡山に攻め上りました。木曽の大軍は比叡山から鯨波をあげ、都へ攻めくだります。驚いた平家一門は、福原の新しい都、一ノ谷へと落ちのびていきました。
義仲は京都に入り、西の洞院に館を構えました。京では平家一門に増して、わがままな振舞をし、公家らを芥のように見下し、神社仏閣を破却し、法皇を鳥羽へ押込めました。その上で朝日将軍の宣旨を受け、今井・樋口・伊達・根井などの持口を固めさせ、公家や殿上人へ無礼なことをしました。
義仲は、自分の生国である信州をまず平定しようと、嫡子清水の冠者義隆を大将として、手塚太郎光盛(注16)と樋口次郎兼光を軍奉行とし、10万の軍勢を遣わしました。信濃国筑摩郡まで平定、さらに小県・佐久を平定しようとし、村々から案内人を呼び寄せました。そこで、北面観音領が広大であることがわかり、これを滅ぼそうとしました。
しかし、東国一の大伽藍なので破却することはもったいない、一応相談し、聞き入れなければ直ちに押し寄せ占拠することとし、しばらく野に陣を敷き休息しました。現在、この場所を御所の平といいます。それから山越に陣をとりました。
手塚光盛の陣所は手塚村、樋口の陣は樋の口手塚の内で、清水冠者の陣は野倉村の清水です。
いまだ18歳で心の強い若大将義仲は、出浦を遠見しようと、身分の低い者の姿で百姓の馬に乗り、山上からしっかり見届け、手塚と樋口を本陣に呼び寄せ、自分は北面を物見しました。よく見ると、たいへんおびただしい大伽藍です。軍師に命じて先ず寺々の返答を聞くことにしました。そのために、手塚に書簡を書かせ、僧たちのところへ持参し、その内容を詳しく話しました。
話を聞いたので、北面の大殿へ三楽四殿の僧たちが集まり、60坊の者は大庭に詰め評議しましたが、決まりません。そのとき、常楽寺の座主真海阿闍梨が、「当山は淳和帝の祈願所で、寺領も淳和・清和両帝からの寄付であり、武家からいただいたものではない。天子様代々の祈願寺で、木曽義仲が勝手に寺領を滅ぼすとは、傍若無人である。・・・・・・」などと主張しました。
そこで、義仲の軍勢は、僧たちが反抗するなら、すべて残らず焼き払えと、その夜10万の軍勢が松明を用意し、油断を見すまして忍び入り、数カ所の寺院に火をかけました。折からの風に、甍を並べていた大伽藍寺院・町家・民家までが燃え上がりました。思いがけないことだったので大騒動になりました。その結果、僧俗男女が多数焼死しました。それは、寿永2年5月21日のことです。東国一の大伽藍は灰燼となってしまいました。
金剛山常楽寺
照明院と号し、天台宗東叡山三寺の一つ。本尊は阿弥陀如来、大悲殿の別当所。この寺の裏の沢に石の宝塔があり、入の塔といいます。
別所常楽寺の裏の沢から出てきた薬師如来は、現在の三州鳳来寺峯の薬師如来です。その由来です。天長六年に諸国で疫病が流行しました。中でも三河国では国中で流行、多くの人が病床に就き、死者もたくさん出ました。三河国の守護は、この惨状を都に訴えました。都では安部の両家に、この天災について聞きました。両家はこの天災から逃れるためには、信州小県郡出浦に出現した薬師仏を三河国に移して安置すればよいと答えました。
そこで、薬師仏を三河の国府へ移し、むかし利修仙人が居た霊場である北山へ仮殿を建て、安置しました。17日のあいだ、法華経・薬師経など大法会修業をすると、疫病が少なくなり、人々はおおいに喜びました。
このことがあり、出浦から如来をしばらく借り受けることとし、三河の守護が三楽四院へ借証文を入れました。この証文は本堂の内陣にありましたが、正徳2年にほかの宝物とともに焼けてしまいました。
如来のおかげで災から逃れたことを機に、三州では山をひらき、寺院から教えを受け、堂を建て、薬師如来を安置しました。
このようないきさつから、北風が吹くときは、信濃風と唱えて扉を開きます。鳳来寺山の薬師は、霊験がきわだっていて、ふもとには町屋が軒を並べて建っています。
古証文が焼失してから、三州では、ここを鳳来寺と呼ぶようになりました。
(注1)筑摩の湯ともいいます。現在この地は、松本市(湯の平)美ケ原温泉あるいは、松本市浅間温泉と考えられています。
(注2)『枕草子』の七久里の湯とは、この温泉だという伝承があります。現在も、別所温泉を、七久里の湯とも呼びます。
(注3)三楽寺とは長楽寺・安楽寺・常楽寺を指し、四つの別院をふくめて、三楽四院と呼びます。
(注4)安和年間、平惟茂が戸隠山で鬼女紅葉を討ったという伝承があります。
(注5)別所の中央に維茂の塚と称する円墳があり、「別所村が衰えて、三戸を残すに至るまで、この塚をあばくべからず」という伝承があります。
(注6)別所方面から千曲川へむけて開けた地で、上田市の南西部にあたり、塩田平と称する平地です。この地には、生島足島神社・塩野神社をはじめ、平安期草創と考えられる中禅寺・常楽寺・前山寺などの古刹があります。国宝安楽寺八角三重の塔をはじめとした寺院関係の文化財が多く「信州の鎌倉」といわれています。
(注7)古代からの東信濃の名族です。
(注8)樵谷惟遷は塩田和尚と称し、鎌倉の建長寺開山の蘭渓道隆と親交がありました。
(注9)現在は夫神岳と書き、村の西にそびえています。語源は「拝み岳」でしょう。塩田平は大むかしから、雨の少ない地域でした。
(注10)「岳(たけ)の幟(のぼり)」といわれ、別所村に伝わる雨乞いの神事として、現在も毎年おこなわれています。
(注11)現上田市長瀬、旧小県郡丸子町長瀬。『名所図会』が書かれたころは、蚕種紙の一大製造地となりつつあり、明治期に入ると日本一の製造量を誇りました。蚕種紙とは蚕の卵を産み付けさせる厚手の和紙のことです。
(注12)明治初期の地図には、神田の渡しとして記されていますが、現在、ここに渡しはありません。なお、茂沢からは長瀬への橋が架けられ「東郷橋」と呼ばれています。日露戦争のあと、東郷平八郎が上田に来て、依田川が千曲川と合流する付近で舟遊びをしたことに由来して、この名が付けられたといいます。
(注13)上田市小牧。千曲川の南岸、小牧山のふもとです。幕末から良い蚕種を産出する地として知られています。
(注14)上田市小泉。千曲川に削られたの断崖の間に人家があり、「半過岩鼻」と言われる断崖がそびえ、対岸は『名所図会』に記されている鼠の岩鼻です。
(注15)上田市腰越。交通の要所です。江戸時代は幕府領でした。ここから丸子の依田川左岸を経て、塩田平から別所へ抜ける道は「鎌倉街道」と推定され、街道沿いには中世の寺院や神社が数多く残っています。
木曽義仲は丸子の依田城を根拠地としていましたので(『平家物語』)、丸子地域には義仲居館跡と推定される地のほか、多くの旧跡・伝承が残されています。依田城にいた義仲は、白鳥川原に出馬、東信濃や西上州の武士を集めて陣を張り、(「白鳥川原の勢揃い」)川中島の横田河原へ進撃し、平氏を破りました。
(注16)光盛の名は『源平盛衰記』と『平家物語』に出てきます。彼の本拠地は塩田平の手塚で、手塚氏館跡(手塚の大城)が確認されています。