窮民対策

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八月十日ころから、人々は蕨(わらび)の根を掘って飢えをしのぎ(同前No.八五五)、さらに、この月末には餓死者が出るようになっており(「平山日記」)、十月から十二月までに三万人の餓死者が出たという(資料近世1No.八五五)。餓死者、そして、その後の疫病の流行による死者などを合わせると、三分の一ほどの領民がこの飢饉の犠牲となったともいわれる(菊池前掲書)。

図104.弘前市専修寺の餓死供養題目塔

 九月中ころ、瓦(かわらけ)町・猫右衛門(ねこえもん)町・石渡(いしわたり)村にそれぞれ一ヵ所ずつ非人小屋が設置され、一人につき一日粥一合が支給されている。さらに、十月十三日には南横町東長町末にも小屋が設置され、ここでは一人一度に粥五勺が支給されている。しかし、「寒風ニ成候故、小屋ニ而死人夥敷」という様子であった(資料近世1No.八五五)。さらに、町医者が派され、薬による治療が行われたが、毎日五人から一〇人が小屋から出され貞昌寺・大圓寺・誓願寺などに預けられ、死後、穴を掘って埋めたという(同前)。元禄九年(一六九六)一月から九月にかけて、猫右衛門町・石渡・東長町(ひがしながまち)の三ヵ所の非人小屋では、粉末一万五六七四服が治療に用いられたことが伝えられている(「国日記」元禄九年十二月十七日条)。
 十月十日、弘前青森鰺ヶ沢・十三に小屋を設置して窮民を収容し、在では一組ごとに目付を置いて御救を実施することにした。非人小屋では、一人一日につき一合四勺から二合の御救米が支給されたというが、飢饉中にはわずか一四四石余りが支給されたにすぎなかったという。すでに、十月四日には、稲の苅株を掘り起こし、その根を叩いて雑炊に入れて食べさせようと考えており(「国日記」元禄八年十月四日条)、実際には、藩は飢饉状況に十分に対応する術を欠いていたということができようか。隠匿米摘発が企図された段階の八月二十五日、藤崎村・板屋野木村・五所川原村など八ヵ村の「銭持候者共」に、米買が強制されている(資料近世1No.八五七)。これは、有力町人・農民がい込んでいる米を放出させようとしたものであった。しかし、これも「米三俵・五俵宛買せ候得て小売申付」ることにすぎず、一時的なものであった。