農村の再開発

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元禄八年の大飢饉、同十五年の飢饉を境に、津軽領の農村では天災などによる荒廃と積極的な再開発が繰り返された。
 飢饉後の津軽弘前藩における最大の課題は、荒廃田畑の復旧であった。荒廃田畑の復興が本格的に着手されるのは元禄十年(一六九七)のことである。荒廃田畑の再開発について、新田地方の事例から津軽藩の実態を検討してみることにしよう(『五所川原市史』通史編1、『日本歴史地名大系2 青森県』を参照)。
 藻川村(もがわむら)(現五所川原市藻川)は、岩木川中流右岸、岩木川十川(とがわ)の合流する氾濫原に位置する村である。寛永年間から開発された五所川原新田の一つで、この当時は広田組に属していた。「国日記」元禄十一年(一六九八)十二月七日条に記されている藻川新田一戸清兵衛の申し立てによると、延宝三年(一六七五)から六年まで八ヵ所の水利普請を行い、三〇〇〇石の収穫を見立てて新田を開発し、それに伴って百姓たちも入植して、延宝七年(一六七九)ごろには九三軒が存在した。しかしその後、水害で五一軒に滅じ、再び百姓を呼び寄せたものの、飢饉によって打撃を受けた。特に元禄八年の飢饉の際には、開発した田畑五一町歩余のうち、三九町五反歩が荒れ地となり、百姓も逃散してわずか一九軒を残すのみとなった。この荒廃によって藻川の人々は著しい困窮に陥った。清兵衛は新田取り立ての際自分の費用に加えて藩の物入もあったことから、藻川村を復興することを百姓たちに申し聞かせたという(『五所川原市史』史料編2上巻)。この申し立てを行った後も、藻川新田の開発は清兵衛によって進められている。「国日記」正徳二年(一七一二)四月二十一日条においては、清兵衛がいっそう開発を進めるために、鶴ヶ岡(つるがおか)村(現五所川原市鶴ヶ岡)と藻川村の合わせて一〇二町歩余の荒田畑の開発と、藻川新田における百姓の取り立てをもくろみ、開発年から六ヵ年の年貢免除とそれ以降の年貢軽減を願い出て許可された。

図119.飯詰広田組絵図の藻川村
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 一方で新規の新田開発も行われた。元禄十六年(一七〇三)十二月、郡奉行から、俵本(たわらもと)(元)村(現五所川原市俵元)に三〇〇〇石の収穫が見込める地があり、その場所を俵元新田と称して開発を進めること、そして野里村のほか何ヵ所かに溜池を作り用水を掘削することについて伺いが出された(同前)。郡奉行からの伺いにもみえる用水路が阿部堰(あべせき)である。この新田の開発に当たった代官阿部亦(又)右衛門の名を取った堰で、所々に見立てた長橋(ながはし)・境ノ沢(さかいのさわ)・持ノ沢(もちのさわ)・野里(のざと)・福岡(ふくおか)・中(なか)の各溜池を結び、新田の用排水に供され、大放(おおはなち)とも称されたという(『日本歴史地名大系2 青森県の地名』)。
 俵元新田は、宝永元年(一七〇四)春から開発を希望するものを募り、その代価として、普請に要する出費を勘案して新田の無年貢の期限を三年の内とし、田の等級に従い七年間は年貢率を低く設定し(低斗代(とだい))、諸役は一五年間免除することなどが定められた(『五所川原市史』通史編1)。宝永六年(一七〇九)、諸役が無課税となっていた年期がけ、年貢および諸役を規定どおり賦課するために検地が実施されることになり、村位が検討された。当時五ヵ村あった俵元新田の村々は同年から七年間は下村(下級の村位)扱いとし、八年目以降は改めてまた詮議することになった(同前史料編2上巻)。
 享保元年(一七一六)から、金木・広須・俵元三新田の新規開発・諸普請が停止された。この年四月の「国日記」によると、これによって、前々年・前年に開発した田畑の用水が不足してしまい、荒れ地になってしまった。藩ではあくまでも普請は無用であり、荒れ地は畑地として活用するように命じている(「国日記」正徳六年四月二十三日条)。この背景には、不作が続いたため農業生産が不安定な状況が続き、新田開発と経営が紆余曲折を経たためと考えられている。享保十年(一七二五)においても、金木・広須・俵元三新田諸役御免の地であり、さらに金木広須新田石盛(こくもり)がつけられず、俵元新田でも石盛(こくもり)はついたものの百姓が農地経営を成り立たせることができないところもあって不安定な状況が続いていた(同前享保十年十一月十一日条)。結局三新田石盛・村位がつけられるのは享保十二年(一七二七)だった(「平山日記」享保十二年条)。また、新田地方を対象とする「元文検地(げんぶんけんち)」(後述)が開始される直前の元文元年(一七三六)、古村の格と対比させて村位を下村とし、石盛は五ヵ年平均値を割り出し村々の状況に合った値とすることとなった(「国日記」元文元年三月四日条)。