土着策への本格的展開(Ⅲ期)

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寛政四年八月二十一日、具体的内容と方法を伴った土着令が出された(資料近世2No.七三)。天四年令と寛政二年令において、土着の奨励をしたにもかかわらず、その成果が顕著でないことから、土着しやすいような条件を整える形で出されている。基本的には知行取層を対象の中心に据えていることと、地方割や勤仕に直接言及していることから、土着策の全面的・本格的展開を意図したものといえる。そして、同年九月九日には知行取切米取の収納方についての指令も具体的に出されている(同前No.七四)。
 これらによって、その主な内容を整理すると、次のようになる。
(1)知行取層を対象の中心に据えていること。具体的には繁勤の者を除いた二〇〇石以下が対象。

(2)在宅地は、知行地の内、石高の多い村への引っ越しとする。また、遠在分と荒地分については、在宅地の近郷に代地として御蔵地の「生地」を与える。

(3)在地に屋敷がない場合は、百姓の屋敷地を宛てがう。ただし、屋敷年貢は免除とする。

(4)地割が行われ、引っ越しを命じられた者については、今秋より「地頭直収納」とし、知行地百姓から直接に年貢を徴収すること。ただし、荒れ地が多く、在宅者すべてに「生地」を代地として与えることはできないため、今年は在宅の村や手寄りの百姓からのみの徴収とし、残りは御蔵渡しとする。

(5)来春に田畑の生荒状況を詳細に把握し、荒地や遠在の地を繰り替えた検地帳を作成し、年貢徴収を四ツ物成とする。

(6)切米取については、これまでと同様に廃田開発を目的とした在宅ではあるが、切米に応じた開発が成就し、それが知行地として認められるまでは、四分の一引きの切米を給付する。ただし、切米に達しなくても、三〇人役以上の開発地については、知行地として与える。

等である。知行取層と切米取層に違いを設けながら、土着に向かえる諸条件を整えていることがわかる。
 しかしながら、諸手当の支給にもかかわらず、十月までの二ヵ月間で一〇〇人ほどしか在宅する者がなかったという(『平山日記』寛政四年九月条)。藩当局はこのような状況を受けて、翌寛政五年九月に「御家中成立」のためとして「永久在宅」を打ち出し、強力に土着の推進を図ることとした。いわゆる寛政五年令である(資料近世2No.七六)。
 これによれば、藩士土着を躊躇(ちゅうちょ)するのは勤仕の問題にあったように記されている。勤仕という藩士の存在根拠を失うのではないかという不安感からくる一種の口実ではあったが、それによって、土着策推進の赤石の自宅に大勢で踏み込んだり、石礫(いしつぶて)を投げ込んだり、さらには菊池に斬りかかったりするという状況まで生まれている(『伝類』)。藩当局は「御家中成立」を目指し、それなりの諸条件を提示し、手当の支給を行っているのであるから、一概に藩士の利害関係のみからこのような状況が生じたとはいいきれない。「下沢氏抄録」(同前)ではこの理由を、藩士たちは目の前の利害ばかりを考え、妻子を連れて百姓らと同様な生活をすることを恥じ、さらには親戚や朋友らと離れ離れになることを深く恨んだために、改革の推進者たちを誹謗しているのであるとして感情論を展開している。城下集住以来の年月と、身分制が浸透している状況を考えたとき、あながち否定しがたい面を含んでいるが、いずれにしろ、土着に異論を唱える者は搦(から)め取るといった強硬手段に踏み切り、土着策の推進を図っていった(『伝類』)。
 つまり、藩士の反対を押さえての土着であり、施策的には家中成り立ちを打ち出してはいるものの、本来的には、卯年飢饉以来の藩財政の再建を意図した、藩庁本位の政策であったとすることができる。藩庁は、以来勤仕に関しては頻繁かつ詳細に令達を繰り返すことによって、土着が勤仕に差し支えるという、在宅を躊躇する藩士たちの唯一の正当的論拠を打ち破っていくことになる(資料近世2No.七五)。
 さて、寛政五年令後のこのような状況を押さえた結果、同年中には七九四(『記類』寛政五年条)、翌六年までには一一五六(『伝類』)の諸士が在宅したとされる。以下、その土着対象者の内容、次いで土着対象地をみながら、藩士土着策の目指したものについて示していくことにする。