幕府は津軽弘前藩と盛岡藩の二藩の兵を要地に駐屯させるという方針を立て、同年十一月、両藩に東蝦夷地警衛を命じた。これにより、両藩はそれまでの箱館勤番を免除され、ともに重役を二、三人、足軽を五〇〇人ずつ派遣し、元陣屋を箱館に置くよう命じられた。また、勤番地については津軽弘前藩はサワラ(現北海道茅部郡砂原町)からウラカワまでを担当して、サワラ・エトロフに勤番所を設け、盛岡藩はウラカワ以東を担当して、ネモロ(現北海道根室市)・クナシリ・エトロフに勤番所を設けて警衛に当たることとなった。
津軽弘前藩はこの幕命に基づき、翌十二年三月には物頭三人・勘定人二人・作事方一人・医者二人・足軽五〇〇人を用意し、渡海に備えたが、その後の幕府との交渉で最終的に二二八人に削減されている。同年四月に渡海、箱館において勤番地と詰め人数は以下のように指示された。
箱館二九人 サワラ四五人 懸り潟(かかりがた)(現北海道茅部郡砂原町)一〇人 ヲシロナイ(現同郡森町)一二人 モリ(現同郡森町)八人 ワシノキ(現同郡森町)一二人 ヲトシベ(現同郡八雲町)八人 ヤムクシナイ(現同郡八雲町)一二人 ヲシヤマンベ(現北海道山越郡長万部町)一二人 レブンゲ(現同虻田郡豊浦町)一〇人 アブタ(現同郡虻田町)二〇人 ウス(現北海道伊達市)一〇人 モロラン(現同室蘭市)一〇人 ペケレヲタ(現同室蘭市)八人 ホロベツ(現同登別市)八人 シラヲイ(現同白老郡白老町)一二人
勤番地は一六ヵ所に分散されたことになる。この態勢は翌享和元年(一八〇一)も同様であった。
なお、派遣された足軽のほとんどは、郷夫(ごうふ)として動員された百姓や職人であり、本来の軍団編成ではなかった。つまり純粋な軍事出兵ではなく、各勤番小屋や道路などの普請を目的としたものであった。東蝦夷地の直轄を契機として、これまで手薄だったところに勤番所や道路を建設し、直轄化政策を進めようとしたのである。一六ヵ所に分散したのは各地に勤番小屋を設置したからであり、享和二年から勤番箇所が縮小するのは、それぞれの普請が完成したからである。また、文化元年から同三年までは、シツカリ(現北海道山越郡長万部町)からレブンゲ間の新道普請が命じられており、この期の派兵は普請を主目的としたものであった。
享和二年の警衛場所は箱館・サワラ・アブタ・モロラン・シラヲイの五ヵ所が指定され、それぞれ五〇人の配置となり、二三〇人が渡海している。
この間の、享和二年二月、幕府は蝦夷地奉行を設置し(同五月箱館奉行と改称)、七月には東蝦夷地を永久上知とした。これに伴い、享和三年、当藩の勤番地はアブタ・モロラン・シラヲイを引き払い、箱館・サワラに加えてエトロフに三〇人を詰めさせることとなった。この年の渡海人数は二一五人となっている。
翌文化元年(一八〇四)、津軽弘前・盛岡両藩は東蝦夷地の永久警衛を命じられるが、勤番地は同様であり、エトロフ三〇人・箱館五七人・サワラ六〇人と、そのほかに前述したシツカリ~レブンゲ間の新道普請に一〇三人が派遣されている。総人数は二五〇人。各年度で実際の派遣数に若干の違いはみられるが、寛政十二年~文化三年までの幕府との間で決められた定数は二五〇人であった。
文化二年・三年も勤番地は同様であった。同二年はエトロフ八〇人・箱館五七人・サワラ六〇人、シツカリ~レブンゲ間の新道普請六五人、同三年はエトロフ八〇人・箱館五七人・サワラ五五人、シツカリ~レブンゲ間の新道普請六七人となっている。エトロフ島の警備強化が図られたことが知られる。