自分仕置

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幕府の刑罰権ないしその行使を「公儀仕置(こうぎしおき)」というのに対し、大名のそれを「自分(じぶん)仕置」という。幕府は元禄十年(一六九七)六月「自分仕置令」を制定したが、津軽領では「国日記」元禄十年七月二十三日の条に左のようにみえている。
   覚
一、逆罪之者仕置之事、
一、致付火候者仕置之事、
一、生類ニ疵付或損し候者仕置之事、
右之科人有之者遂詮議、一領一家中迄ニ而外江障於無之者、向後不及伺、江戸之御仕置ニ准シ自分仕置可被申付候、(下略)

 右の逆罪(主殺し、親殺しなど)・付火(つけび)(放火)については、その犯罪の及ぶ範が一領・一家中であって、他領・他家に影響のない場合は、幕府に伺う必要がなく、大名が独自に処罰しうるということである。一家中とは大名と主従関係で結ばれた家臣団とその家族を指し、一領とは領分人別帳(にんべつちょう)(人口調査に伴い作成された帳簿)に記されている庶民を意味する。
 幕府が各大名に対し、「自分仕置」を許すものとして逆罪付火を挙げたのは、これら二つに限定したのではなく、「自分仕置」をなしうる最限を示したものである(杉山晴康『日本法史概論』一九八〇年 成文堂刊)。幕府の「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」(一七四二年成立。上・下二巻、下巻を「御定書百ヵ条」という。以後「公事方御定書」と表現する場合は下巻を指す。)によれば、逆罪(はりつけ)、付火火罪(火(ひ)あぶり)で最刑に処せられた。
 津軽弘前藩の最初の刑罰法「御刑罰御定(ごけいばつおさだめ)」(以後、安永律(あんえいりつ)と呼称。弘図郷)の規定によれば、逆罪は主殺し・親殺しとも鋸挽(のこびき)・獄門(ごくもん)・斬罪(ざんざい)・重鞭刑(じゅうべんけい)追放、付火火罪が基準(六四二頁参照)で、実際に執行されており、それ以下の犯罪についてはもちろん自分仕置であった。
 「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」は五代将軍徳川綱吉(つなよし)が貞享四年(一六八七)に制定し、宝永六年(一七〇九)綱吉の死亡とともに廃止された悪法である。三番目の規定は「生類憐みの令」にもとづき、各藩がそれを一層徹底させようと図ったものであろう。要するに、「自分仕置令」は、大名に家臣団とその家族および領内の庶民に対しての刑罰権を認めたものである。例外的に無宿(むしゅく)(一定の住居と正業をもたない浮浪人)は、犯罪地や逮捕地の領主の刑罰権に服した。