先に述べた滝屋・藤林ら青森商人は、何も外国交易にだけ熱心だったのではない。むしろ、彼らの期待は安政二年の箱館開港、同六年の東北諸藩による蝦夷地分領支配を契機として、大量にやってくる警備人数に宿を提供したり、蝦夷地での必需品を廻漕するといった商売にあった。
たとえば、滝屋は藩の御用を勤める一方、大顧客として箱館奉行所の注文をたびたび受けている。慶応二年(一八六六)五月、箱館奉行の御用船健順丸(けんじゅんまる)が青森に入港し、兵粮(ひょうろう)八五俵・味噌二〇樽・醤油三四樽・玉子三六〇・酒三樽・梅干し・油類など合計二二四両で購入した(『青森市史』第九巻)。この他に滝屋が箱館奉行所に売却した物資は種籾・大豆・小豆など実に種類が多く、特に文久二年(一八六二)正月と翌三年六月には幕府直営の漁場である樺太(からふと)に向け、網・縄・ムシロ類や漁具が一一八九両分も売却されている(同前)。このように青森商人の活動に諸藩や幕府役人は大きく依存していたのである。
さらに、仙台藩や会津藩では津軽弘前藩に申し入れ、蝦夷地警備の入用米をわざわざ国元から送ったのでは輸送費がかさみ、海難の心配もあるので、青森から津軽米を仕入れ、代米は江戸に輸送される廻米で支払おうとの提案がなされた(『青森市史』第七巻)。この活動に商人たちが深く関与するのは明らかであり、商売の機会はますます拡大するはずであった。この計画自体は津軽弘前藩側が米の安定供給に自信を持てなかったため実現しなかったが、江戸・大坂廻米を最優先させねばならなかった幕藩体制下の経済構造に、大きな変換の可能性を示したものであった。やがて幕府が滅亡し、明治新政府の下で商業の自由が布告されると、青森米は第一の市場として北海道に向けて大量に流出するのである。